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シュエターリャウン・パゴダ
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写真−120
シュエターリャウン・パゴダ
撮影地:バゴー
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2011_2_27
ビルマの竪琴は名作か、駄作か?(シュエターリャウン・パゴダ)‥‥
シュエターリャウン・パゴダの涅槃像は全長55m、994年モン族の王により建設された。モン族のバゴー王朝の滅亡とともに密林に覆われてしまったが、イギリス植民地時代、鉄道敷設のため偶然に発見された。映画「ビルマの竪琴」(1956年封切)に登場する涅槃像のロケに使われたとの話もあるが、映画はタイとの国境近くの寺院で撮影されたとの話もある。

「ビルマの竪琴」は、ネットを調べてみると多くの批判的な意見があった。

・上座部仏教の僧侶は227の戒律を守っているが、戒のひとつに「離歌舞観聴‥‥音楽や舞踏などを鑑賞せず」があり、竪琴などは演奏しない。水島上等兵がビルマ僧になり、竪琴を携えて山野を巡り、収容所前で竪琴を演奏することはビルマではあり得ない。

・「ビルマの竪琴」には、戦争がなぜ起こったのか、なぜ日本からはるか離れたビルマの戦場まで日本兵は侵攻したのか、戦地のビルマの民衆はどう反応したのかなど、戦争の本質がまったく描かれていない。

・「ビルマの竪琴」は侵略軍の兵士の鎮魂の映画に過ぎないのではないか、日本人はただその程度のことを反戦的な表現だと思っているのだろうか、侵略された側のことを考えないのだろうか!


戦争の本質や、侵略された側の苦しみに触れていないとの見解に異論はないが、小説や映画は、着想テーマを深く掘り下げ、強調するものと思う。小説が、歴史的認識と思想的解説の羅列になったのでは小説にならない。逆に権力者(国家)に都合よく利用されることもある。

戦争をテーマにした映画や小説には、例えば「引き裂かれる恋人」や、「離散する家族」をテーマにしたものもある。「ビルマの竪琴」は出征兵士が僧侶になり、遺骨拾いを決断することがテーマであり、非難されるべきテーマではない。18万人の日本人兵士がビルマで戦没している。 

上座部仏教のビルマ僧侶は音楽を演奏しないとの指摘はもっともだが、日本の仏教習慣の読者には、竪琴で最後の別れを告げる場面は共感したのではないだろうか。映画撮影時には宗教的な理由で、ビルマの俳優は競演できないなどの経緯はあったらしいが、日本人の僧侶が竪琴を弾くと言うことでビルマ人にも理解されたとの話もある。厳密な時代考証や風俗考証をすれば、殆どの映画や小説は矛盾だらけになる。一点の間違いを取り上げ「鬼の首」を取るのも程度次第である。

「ビルマ僧は竪琴を弾かない」との映画批判が、ここを訪れた多くの旅行者のブログに画一的に記載されている。誰かが批判記事を書くと、同調する人が多いのは不思議だ。

許されない嘘・誇張と、許されるそれもある。例えば、忠臣蔵は何度も変更脚色され、徐々に日本人に好まれるストーリーになった。また芸術的絵画は、目前の情景を写真のように写し取ったものではなく、感性で何かを強調して描き、観る人の感動を誘っている。いろいろな考え方を自分なりに理解した上で映画や小説を楽しめば良いと思う。