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日本兵慰霊碑
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写真−67〜68
日本兵慰霊碑 日本兵慰霊碑
サガイン・ヒルの日本兵慰霊碑
2011_2_23
ダビィニュ寺院(パガン)の日本兵慰霊碑→
2011_2_25
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白骨街道(太平洋戦争時のビルマ戦線)‥‥
上座部仏教の考えでは死んだら肉体は何も残さないとの考えで、お墓を造る習慣はない。そのため、日本兵の遺族が遺骨収集をすることに最初は違和感を抱く人も居たようだが、日本人の戦死者を悼む気持ちは徐々に理解され、訪問した慰霊碑なども現地の人の手で丁寧に掃除されていた。

ビルマ戦線で日本軍が多大な犠牲を払ったことは、小説「ビルマの竪琴」を読んだ小さい頃から知っていた。これらの出来事は、私が生まれる以前ではなく、生まれた後のことである。生まれる以前の出来事ならば、遠い歴史のロマンとしての理解もあるかも知れないが、物心ついた小学生時代に、これらのニュースをラジオや新聞で見聞きした記憶があるので、今回の旅行で訪れた慰霊碑を前にして、観光的な気分にはなれない。涙ぐむ同行者も居た。

1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍はビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1 943年末以降、イギリスと、アメリカが本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、惨憺たる失敗に終わった。ビルマでの日本人の戦没者は18万名に達した。

インパールを撤退する日本軍は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は、イギリス軍側の損害1万8千名に対し、日本軍は参加兵力約8万6千名のうち3万2千名余りが戦死・戦病死し、4万名の戦病者を出した。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の日本の戦力を決定的に低下させた。

20数万以上の遺骨がビルマの戦跡に放置されたと言われ、遺族から収集のための尽力について運動がなされ、その結果、195 5年からインパールを中心としたビルマ方面への遺骨収集、慰霊団の派遣が議論され実行に至っている。
なお、最初の派遣団が出発するまでに8万柱余りの遺骨が国内に送還されていた。派遣団はマンダレーヒルを皮切りに、インパール、続いてラングーンで追悼式を実施した。派遣団が収集した遺骨は1351柱、残りは8万7000余りと考えられている。しかし、現地の治安が良好ではなく、収集団には軍の護衛がつけられている。
(Wikipedia)