ルーツを訪ねる旅
4−5 見性寺 (須玉町江草地区)
2007年8月27日筆者撮影
江草城城主「江草兵庫助信泰」の漆喰の座像(左)が初代住職の座像と並んで安置されている
見性寺の山門
須玉町江草には「集雲山・見性寺」と言う臨済宗妙心寺派の寺がある。この寺は鎌倉時代の元応2年(1320)5月4日に「獅子吼城」で討死した信田小左衛門実正・小太郎実高父子の菩提寺として、元享元年(1321)に開かれた。
また、武田系譜によると、応永年間(1394〜1428)に武田信満の三男「江草兵庫助信泰」が江草城(獅子吼城)に居城したといわれる。
「見性寺」には「江草兵庫助信泰」の漆喰の座像が初代住職の座像と並んで安置され、位牌は武田信玄の位牌(?)と並んで安置されていた。先代の住職に親切に案内して戴いた。
「見性寺」の門を入ると右手に、守屋貞治(1765〜1832年、江戸時代)の作による延命地蔵がある。
貞治は長野県の高遠町出身の石工であるが、その石仏は個性的である種の精神性を感じられると言われ、68歳で大往生するまでの間に340体余の石仏を残した。
「見性寺」は江戸時代には寺小屋(江草学校)になっており地域の教育に貢献した。
また、明治33年2月に「江草尋常小学校」が出火全焼したときに、平地区の生徒がこの「見性寺」を仮校舎として借用した。
現在も地区の学校の生徒が「見性寺」を授業で訪問し、地域の歴史を学んでいるそうだ。
なお、この寺には過去にも二人ほど広島県と岡山県から江草姓の方が訪れ、江草城や寺の歴史を聞かれたとのこと。