ルーツを訪ねる旅
2007年08月29日
須玉町内の烽火台は、塩川と須玉川沿いに4〜5キロメートル間隔で点在していた。
烽火ルートは北の信州善光寺平を起点として、須玉町を通過し、南の甲府市躑躅ヶ崎(武田氏の居館)に伝達されていた。
善光寺平より躑躅ヶ崎までの距離は約160 km、烽火を用いると約2時間で伝達されたという。
武田信玄は烽火台とは別に、火急時に敵に気付かれることなく軍隊が素早く移動出来るように「棒道」も整備していた。
戦乱の時代でも、常に先を見据えて手を打っていたのである。
3−3 伊賀忍者により江草城(獅子吼城)が落城(3度目の悲劇)
江草城(獅子吼城)が戦いに敗れて開城した9年後の天文10年(1541)に、武田晴信(後の
武田信玄)は重臣の板垣信方や甘利虎泰らに擁立されて父・信虎を駿河に追放し、家督を相続した。時代は同じく室町時代(戦国時代)である。
「武田信玄」は甲斐武田氏初代当主「武田信義」から数えて第16代当主であり、甲斐源氏の「源義光」からは第19代目となる。
そして「武田信玄」は、上杉・今川・北条・織田・徳川などの列強と争って日本統一を目指す一大勢力、最強軍団となる。
この時代に、江草城は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として、また塩川沿いの狼煙中継点として活躍した。(上図)
悲劇多い江草城ではあったが、武田信玄の時代は栄光の時代であった。
この辺りが風林火山の時代であり、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」に断片的ながら人物は登場しているが、残念ながら「江草城」としては登場していない。
さらに時代は大きく動き、安土桃山時代の天正10年(1582)に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し(天目山の戦い)、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、3ヶ月後に本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、河尻秀隆は殺害された。
その直後に武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦った(天正壬午の乱:1582年〜)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、江草城にも北条勢が立て籠もった。一方の徳川家康は韮崎の新府城を本陣とし、家康配下の武田氏遺臣の津金衆・小尾衆と
服部半蔵率いる伊賀組とが夜襲をかけて江草城を落城させた。江草城の3度目の悲劇である。その後徳川と北条の和睦が成立し、甲斐が徳川領となると江草城は廃城となり以降歴史から消滅する。
この
江草城(獅子吼城)の最後の攻防は、甲斐における戦国時代最後の合戦であったとともに、家康の勝利を決定的なものとし、以後家康が日本統一の道を進む大きな一歩ともなった。家康が江戸に幕府を開いたのは、江草城落城の21年後の1603年である。
江草城(獅子吼城)は至るところに岩石が露出した勾配のきつい山城である。直線的に登ってみたが、露出した岩と大小の木々が立ちはだかり、その上あちこちに石塁が築かれているので登頂は困難を極めた。これでは夜襲をかけた伊賀忍者ですら苦労したであろう。昔の武将は領地を確保するためにここまでも労力を払ったのか。頂上部は平らになっており烽火台が復元されていた。
江草城(獅子吼城)は激動の歴史に包まれた城であり、廃城として扱うには惜しい城である。
§4.に続く