ルーツを訪ねる旅
2007年08月29日
獅子淵
城が落城の折り城内に住んでいた怪物が野山を揺るがす声で吼えながら、この深い淵をめがけて飛び込み岩となってしまったとの伝説により、この深い淵は「獅子淵」と謂われる。
なお、根古屋神社の下の淵は現在は近づくことが出来ないので、少し下った橋の上から似たような地形を撮影した。
§3. 悲劇の江草城
3−1 記録に残る江草城−獅子吼城(最初の悲劇)
山梨県 北杜市 須玉町 江草に
「江草城」(江草小屋)の城址がある。
「江草城」は別名
「獅子吼城」とも呼ばれる。
塩川左岸の標高788メートルの独立峰を利用した山城であるが、現在はその石塁しか残されてない。この山は単に城山と言われるが、「江草富士」とも呼ばれるそうだ。
また、「江草城」の東北に「見性寺」という寺があり、寺記によると、鎌倉時代末期の元応2年(1320)に、信田小左衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が「獅子吼城」で討死したという記録がある。伝えられる江草城の最初の悲劇である。
「獅子吼城」の名前の謂われは、城が落城の折り城内に住んでいた怪物が野山を揺るがす声で吼えながら眼下の深い淵(獅子淵)をめがけて飛び込み、岩となってしまったとの伝説による。この謂われは下記の「江草兵庫助信泰」が城主となる武田時代以前の伝説である。
3−2 甲斐統一時の江草城(獅子吼城)(2度目の悲劇)
また、「甲斐国社記・寺記」によると、室町時代の応永年間(1394-1428)には、江草城に今井兵庫助信康(=
「江草兵庫助信泰」 ‥武田信満の3男)が居城していた。これにより「江草城」の呼称が始まったのであろう。上述の「見性寺」には「江草兵庫助信泰」の位牌と漆喰の座像が安置されている。
時代は室町時代(戦国時代)となる。今井信是(江草兵庫助信泰の弟信景の4代目)およびその子「信元」が江草城の城主時代に、永正年間(1504〜1521)から享禄年間(1528〜1532)の長きに渡って、
武田信虎(武田信玄の父)と対立して戦った。なお、今井姓は古い居住地に対する新しい住居地を意味し、同じ武田氏族の傍系である。
今井(武田)信是・信元父子は飫富兵部少輔らとともに甲府を出奔し御嶽に立て籠もり、これに大井信業・栗原氏等国人領主が加わり、諏訪碧雲斎頼満に援軍を求め、武田の嫡流(信虎)に対する大規模な叛乱に発展した(1531年)。この諏訪との連合軍は武田信虎が諏訪下社牢人衆を集めて立て籠もっていた笹尾塁を自落させて進軍したが大井信業・今井備州らが戦死、さらに韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら800名が戦死し壊滅的打撃を受けた。今井信元はなお抵抗したが、天文元年(1532)に本拠地の
江草城は戦いに敗れて開城し、武田信虎の軍門に降った。江草城の2度目の悲劇である。しかしこの戦いにより武田の嫡流を核とした強力な甲斐統一が実現した。
この戦いで今井、大原、栗原などの名前が出てくるが、系図から伺われるように何れも武田一族である。即ち戦いの位置づけとしては、武田の傍系が武田の嫡流に反旗を翻したものであり、武田一族の内輪の戦乱である。ただし時代は戦国時代でどちらが勝つか分からないので、武田以外の近隣豪族でどちらかに加担した者もいた。
3−3に続く