江草村の
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ルーツを訪ねる旅
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2007年08月29日
§2. 歴史に登場した 江草姓
2−1 歴史上始めて江草の姓が登場

 貴族社会の平安時代から武家社会の鎌倉時代への移行期に有名な源平合戦があった。

 この世を謳歌した平家は源義経率いる軍団により一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い(1185年3月)と追いつめられ滅亡する。

 平家を追いつめた源軍団の一派として、信濃の豪族である甲斐の清和源氏義光流武田氏族があった。源清光(義光の孫)の次男「武田信義」は平安時代末期〜鎌倉時代初期の武将であり、源頼朝の要請に応じて平家討伐に駿河で活躍し軍功をあげた。「武田信義」は甲斐源氏4代目当主であり、甲斐武田氏の初代当主でもある。

 時代は下り、源頼朝の鎌倉時代から足利尊氏の南北朝時代になると、甲斐武田氏の第7代当主「武田信武」が足利尊氏およびその子・足利義詮に仕え、安芸国/甲斐国の両守護職に任命された。

 さらに室町時代になると、武田信武の4代目に当たる「武田信満」も同じく安芸国/甲斐国の両守護職および安芸守に任命された。

 武田信満の3男「武田信泰」は「江草兵庫助信泰」とも称した。ここに歴史上始めて江草姓が登場する。時代は室町時代である。


2−2 何故武田が江草の姓を名乗ったか

 現在山梨県の「旧江草村」に江草姓は一人も居ないが、広島県には江草姓が結構多い。江草姓は広島県東部(備後)に多く見られる姓で「戦国時代の豪族の家系」である。

 「武田信泰」が江草姓を名乗った事に関して可能なケースはいくつかあるが、私は次のように推察してみた。

 「武田信泰」は武田信満の3男だったので武田姓(家督)を受け継ぐ必要はなかった。父武田信満は甲斐国の守護職と共に安芸国(広島県)の守護職と安芸守にも任命されていた。そのため、信泰は何らかの因縁で安芸国の隣の備後国の豪族「江草家」の養子になり江草姓を名乗ったのではなかろうか。しかし、養子と言ってもそれは名前だけで実際には甲斐国の「江草城」に居留した。そして信泰の子供は備後国で江草家を継いだので、「江草城」は信泰の甥の「武田信経」が継いだ。

 従って広島県には、江草城の城主「江草兵庫助信泰」の末裔がいる筈である。その人は甲斐武田家の血も引いている。

 このような経緯(一部推察)で、「武田信経」は、父「信景」の遺領とともに伯父「江草兵庫助信泰」の遺領をも併せて継承したため「江草信泰」の官途である兵庫助を称した。以後この家系は甲斐の国人領主に成長し、武田の嫡流(信虎)に対抗する強力な存在になった。この武田氏族間の争いの過程で「江草城−獅子吼城」が悲劇の城として歴史に登場する。

 
  次ページへ続く

 
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