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佐賀藩は、西洋との窓口である長崎の警備を受け持っており、
海防上、北方(蝦夷地)に重大な関心を示していました。

第10代藩主       は、洋式艦隊を編成すると共に、
時の大老“井伊直弼”を説得し、色丹島(現在の北方領土)を
佐賀藩海軍の停泊地にする事に成功します。

そして、佐賀の商人“武富儀八”らに命じ、密かに帆船を廻航させて、
米・酒・塩・味噌などを運び、その帰路、鮭・鱈・昆布・毛皮などを
積んで佐賀の伊万里に運び、莫大な利益を上げていました。
この利益こそ、佐賀藩を洋式軍事立国へと導き、
官軍の主力(薩長土肥)として、活躍する源となったのでした。

徳川幕府は倒れ、明治新政府が発足すると、
北海道は各藩による分領支配となります。
佐賀藩は、釧路国釧路・厚岸・川上の三郡支配を命じられます。
そして、釧路国経営の御用達として、“武富善吉(儀八の倅)”ら
佐賀の商人が選ばれます。

明治9年、大蔵省勧業局と“武富・笠野”などの佐賀商人らによる
半官半民の商事会社『 広業商会 』が設立されました。
この官民の斡旋の労をとったのも、
同じ佐賀出身の開拓使幹部である“西村貞陽”でした。
広業商会は、中国向け輸出昆布をはじめ、鹿角・鹿皮などを取り扱い、本店を東京、支店を上海・香港・函館・根室・大阪・長崎に
置いていました。
この広業商会設立により、漁場持の独占が排除され、
一般漁民に今まで以上に多くのお金が入るようになり、
生活が安定したのでした。

明治18年、“広業商会”は解散し、昆布事業は別会社に引き継がれて
いきますが、“広業商会”の果たした役割(昆布事業の安定)は大きく、
釧路地方発展の原動力であったと言えます。

ちなみに、“武富善吉”は釧路銀行を設立するなど、
釧路の産業経済界の重鎮となります。
また、弟“隆太郎”は、釧路町長をつとめています。

この様に、武富家をはじめとする佐賀出身者が釧路地方を
開発・発展させたと言っても過言ではないでしょう。
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“鍋島直正”