taketomi003005.jpg
taketomi005003.jpg
“五州二島の太守”と呼ばれた龍造寺隆信が、
天正12年(1584年)、島原半島の沖田畷にて戦死すると、
重臣の鍋島直茂は、隆信の嫡男政家を輔弼して島津氏に抗し、
豊臣秀吉によしみを通じた。
その後、秀吉の命により龍造寺政家・高房父子に代わって、
鍋島直茂が国政をゆだねられ、実質上の肥前佐賀領主となった。
 そして、慶長5年(1600年)、関が原の戦い時、直茂の長男勝茂は、
西軍(石田三成)に与し、伏見城などの攻撃に参加した。
やがて、勝敗が決し、東軍の勝利となるや、直茂は、すぐさま家康に
使者を出し、黒田長政・加藤清正を通して、勝茂の西軍参加を謝罪し、
筑後柳河城主立花宗茂を討伐する事により所領を安堵された。
 慶長12年(1607年)、直茂は隠居し、家督を勝茂が継いだ。
そして、龍造寺政家・高房父子が没した事から、鍋島勝茂が名実ともに
佐賀藩35万7千石の当主におさまった。
以後、鍋島氏が佐賀藩主として、11代260年間に渡って在封する。


 肥前佐賀藩鍋島家 

   家格  国主・外様

   領地  肥前佐賀
 
   石高  35万7千石

   家紋  鍋島杏葉(八枚抱き杏葉)

   席次  大広間詰

   菩提寺 高伝寺(佐賀市)

   系図  藩祖 鍋島直茂 −−− 初代 勝茂        
                       |       
                  第2代 光茂
                       |
                  第3代 綱茂
                       |
                  第4代 吉茂
                       |
                  第5代 宗茂
                       |
                  第6代 宗教
                       |
                  第7代 重茂
                       |
                  第8代 治茂
                       |
                  第9代 斉直
                       |
                  第10代 直正(閑叟)
                       |
                  第11代 直大                 
            


   ※ 全国で国持大名は18家あり、
     肥前国主の鍋島家もその一家である。   
  鍋島杏葉
taketomi005002.jpg
taketomi005001.jpg