“五州二島の太守”と呼ばれた龍造寺隆信が、
天正12年(1584年)、島原半島の沖田畷にて戦死すると、
重臣の鍋島直茂は、隆信の嫡男政家を輔弼して島津氏に抗し、
豊臣秀吉によしみを通じた。
その後、秀吉の命により龍造寺政家・高房父子に代わって、
鍋島直茂が国政をゆだねられ、実質上の肥前佐賀領主となった。
そして、慶長5年(1600年)、関が原の戦い時、直茂の長男勝茂は、
西軍(石田三成)に与し、伏見城などの攻撃に参加した。
やがて、勝敗が決し、東軍の勝利となるや、直茂は、すぐさま家康に
使者を出し、黒田長政・加藤清正を通して、勝茂の西軍参加を謝罪し、
筑後柳河城主立花宗茂を討伐する事により所領を安堵された。
慶長12年(1607年)、直茂は隠居し、家督を勝茂が継いだ。
そして、龍造寺政家・高房父子が没した事から、鍋島勝茂が名実ともに
佐賀藩35万7千石の当主におさまった。
以後、鍋島氏が佐賀藩主として、11代260年間に渡って在封する。
肥前佐賀藩鍋島家
家格 国主・外様
領地 肥前佐賀
石高 35万7千石
家紋 鍋島杏葉(八枚抱き杏葉)
席次 大広間詰
菩提寺 高伝寺(佐賀市)
系図 藩祖 鍋島直茂 −−− 初代 勝茂
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第2代 光茂
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第3代 綱茂
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第4代 吉茂
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第5代 宗茂
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第6代 宗教
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第7代 重茂
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第8代 治茂
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第9代 斉直
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第10代 直正(閑叟)
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第11代 直大
※ 全国で国持大名は18家あり、
肥前国主の鍋島家もその一家である。
鍋島杏葉