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 佐賀藩は、武士・町人・農民を問わず、他領への移住、
他領からの移住を禁じた「二重鎖国体制」や、
藩内に中世的な「地方知行制」を多く残した点などの保守性と
唯一の開港場である長崎に隣接し、長崎御番(警備)を受け持った関係上、
西洋文明の導入も早く、開明性・進取性を併せ持った藩風であった。
また、五州二島の太守と呼ばれた龍造寺隆信時代の膨大な武士団を
抱え込んだ為、武士身分の者が非常に多く、“被官”と呼ばれる
準武士的階層が存在していた。


1. 二重鎖国

   日本全体が鎖国体制であり、その中で藩として鎖国しているのは、
  佐賀藩と薩摩藩のみで、「二重鎖国」と呼ばれていた。
  鎖国というと薩摩藩が思い浮かぶが、
  外部からの入国を拒み、領民は藩外に出る事を許されず、
  藩士も藩命によらずして、他藩士と交際する事を許さなかった。
  この点、薩摩藩より、徹底していたと言える。


2. 長崎御番(警備)

   長崎は、幕府領であり、鎖国令以来、中国・オランダのみと貿易を
  おこなう唯一の開港場であり、西国で最も富貴な地とされている。
  三代将軍家光の時に、福岡藩黒田家とともに「長崎御番(警備)」を
  命ぜられ、三百諸侯の中において、常時対外戦備を整えているただ
  二つの武門であった。
  この長崎御番が、洋式軍事工業を興して軍事力強化を図る基となり、
  幕末・維新時の佐賀藩の地位を向上させたのである。
 

3. 地方知行(じかたちぎょう)

   佐賀藩鍋島家は、龍造寺四家(諫早・多久・武雄後藤・須古)を
  中心とした地付侍を統合した大名であり、「地方地行」を残していた。
  本来、幕藩体制化の大名領国は、一般的に兵農分離によって、
  武士は城下町に集められ、農村からは商人も引き離し、
  刀や槍などの武器も取り上げていた。
  しかし、佐賀藩領では、支藩・大身の家臣は、各々の領地に館を設け、
  家臣団(武士層)も、それぞれの館を中心に農村に住みついて、
  農民と混在していたのである。
 
   三支藩は、内分分家であるにもかかわらず、参勤交代をつとめ、
  独立した藩として、幕府の普請役や御馳走役も負担していた。

  また、上級家臣(親類・親類同格各家)の知行地は、
 『大配分』と称される自治領であり、『邑』(ゆう)などと呼ばれて、
  大名領国と変わらなかった。
  (石高も、小藩に匹敵する1万石以上がほとんど。)

  本藩の武士も、その8割は、城外の農村・港等に住み、
  城下の下級武士は、商業を営む者も多かった。

  この様に、佐賀藩領では、武士と農民・商人は、混在の状態であり、
  “五人組の制”においても、武士・町人・農民の区別なく組を
  構成していた。
  つまり、組内に武士がいるという事は、農民一揆など起こりうるはずも
  なく、農民・商人も武士気質の影響を多大に受けていたのである。



  佐賀藩鍋島家  35万7千石

     三支藩    小城 鍋島家   7万3千石
    (三家)    蓮池 鍋島家   5万2千石
            鹿島 鍋島家   2万石

     親類     白石 鍋島家   2万石
            川久保 鍋島家  1万石
          ★ 久保田 村田家  1万石
            鳥栖村田 鍋島家 6千石

     親類同格  ★ 諫早家      2万5千石
          ★ 多久家      1万石
          ★ 武雄 後藤家   2万1千石
              (鍋島家)
          ★ 須古 鍋島家   1万石


        ★の5家は、いわゆる龍造寺一門。     

        久保田村田家は、龍造寺直系の子孫。
        龍造寺隆信の嫡子“政家”の子である安良が、
        “村田”と改称したものである。




4. 兵農未分離による膨大な武士団

   佐賀藩は、石高に不釣合いの武士団(全兵力3万名)を擁していた。    
   その理由の一つには、「五州二島の太守」と呼ばれた龍造寺隆信の
   広大な領地の膨大な武士団を可及的に抱え込んだ事にあった。
   その為、薄給の武士が多く、中には、切米1石の「1石足軽」や
   無給の足軽もみられた。
   これら、薄給の下級武士は、農村に住んでは、農民同様に耕作を営み、
   城下に住んでは、町人同様に商売を営んで生計をたてていたのである。

   また、軍役を課せられている武士も、それに応ずるだけの陪臣を持つ
   経済的余裕はなく、そこで、武士と百姓・町人との間にあたる
   『被官』(ひかん)と呼ばれる階層が存在したのである。
   この『被官』は、“苗字帯刀”を許されて、軍役を負いながら、
   手当ては、僅かな米(2〜3斗)を支給されるだけであった。
   他には、陪臣の“侍”を主人とした「又被官」や
   無手当の「名被官」と呼ばれる者も存在していた。
   これらの『被官』は、平時には、農業や商業等に従事し、
   戦時には、主人たる武士に属して従軍するもので、帯刀を許されている
   ので、貴重な戦力とみなされていたのである。

   そしてさらに、『手明鑓』と呼ばれる下士層が存在していた。
   一律に切米15石を支給され、平時は手明き(無役)で、
   戦時には、鑓一本、具足一領で出陣する事に定めたものであった。
   その後、平時の勤めもする様になり、身分的には、「平士」と「徒」
   との中間に位置づけられた。


   幕末維新時の“戊辰戦争”において佐賀藩は、官軍の主力として、
   横浜・江戸上野・東北・北越・函館へと陸海軍を出兵させた。
   この戦争を通じて、佐賀藩 5,138名、小城・蓮池藩 1,100名余り、 
   計6千名以上もの大兵力を動員した。
   財政的に苦しい藩の状態にあって、この様に大規模な軍事力を動員
   できたのも、佐賀藩が“兵農未分離”状態で、『被官』の様な
   準武士的身分の階層が存在していたからにほかならない。
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“龍造寺隆信公”の石碑
龍造寺隆信は、
肥前・肥後・筑前・筑後・豊前の五州と
対馬・壱岐の二島に版図を広げ、
“五州二島の太守”と呼ばれた。


佐賀藩は、
これらの広大な領土の武士達を抱え込む
事となり、他藩に比べると、
武士身分の者が非常に多かった。
(佐賀市)
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