蝦夷穴古墳
古墳から七尾湾(能登半島)を見る 手前が雌穴、奥が雄穴

蝦夷穴古墳は七尾湾の対岸、能登島の七尾湾側にある。対岸には七尾湾から石道山まで見渡せる。7世紀中頃、最終末期の方墳である。この時期のものとしては能登最大規模の古墳である。二つの石室を持ち、向かって右を雄穴、左を雌穴という。天上が持ち送り式になっていて高句麗の影響も考えられる一方、板石を腰板に使うことから、北九州の影響も入っているとされる。

雄穴からはヤマト政権から与えられたとされる飾り太刀がでている。そのため、七尾湾の水軍の指揮をとった有力者のものと考えられている。一方でほ「ほぞ穴鉄斧」も出ているが、これは樹木の伐採に使われた「新羅斧」と呼ばれるものである。七尾湾には「舟木部」がいたが、彼らをも統率した人物である。須恵器も出土している。

7世紀中頃は、朝鮮半島は高句麗、百済が亡び、それに関係して西日本のクニグニは朝鮮半島に動員された。一方で、越のクニグニは東北経営に動員されている。この時期に、阿部臣に越などの諸国を視察させ(589)、渟足柵(647)、磐舟柵(648)が設置されているからである。

石室の作り、出土物から渡来系、高句麗との関係が考えられる一方、このような民を支配した能登臣の墳墓の可能性も指摘されている。というのも、658年に蝦夷征討を行い、能登臣馬身龍が死亡していると日本書紀にあるからである(七尾市史より)。

雌穴石室 雄穴石室(持ち送り部分) 雄穴の説明

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