万行遺跡、院 内勅使塚古墳(北方への接点)
万行遺跡 説明板

七尾は大和政権が北方経営の拠点とした場所である。ここが東北世界への玄関口だったからである。弥生時代中期、東北地方の勢力は越後まで南下していた。この七尾に古墳時代初期に突然巨大な建物が現れた。それが万行遺跡である。二重の柵で囲まれた東西39m、南北74mの空間に床面積150から360uの掘立柱建物が建てられていたのである。これまで発見されている5世紀のクラ遺跡の中では最大のものである。海岸からは低い台地上に作られていて、海から来るものにとって威容を示すものである。祭祀遺跡説とクラ説があるが、クラ説の方が有力である。

すなわち、ヤマト政権が関与して、ヤマト政権側から、あるいは北方からの物資の保管に使われたと言われているのである。しかし、わすか1世代でこの施設は廃れ、豪族居館のようなものに変わっていった。このような倉庫を作ることが出来た勢力は七尾に綿々と続き、この地域に首長墓が多く作られる。その中には渡来系の人々がいたことを示す遺跡も出てきている。これら古墳の最後のものが、能登最大級の終末古墳である院内勅使塚古墳である。周溝のめぐる二段式の方墳で、能登ではそれまで見られなかった版築工法による古墳である。大型石室があり「能登の石舞台」という表現もある。出土した須恵器から7世紀前半のものとされる。ちなみに石舞台も7世紀前半である。版築は6世紀後半に渡来人によって寺院の基壇に用いられたが、それが古墳にも取り入れられた(以上、七尾市史より)。古墳はおそらく能登臣のものとされる。

近くには国分寺もある。もともと能登臣の一族が白鳳時代に建てた大興寺を、843年に国分寺に昇格させたものである。能登国は718年に越前国から分離されたが、741年に再び越前国に併合され、さらに757年に再び能登国に分離された経緯がある。741年に国分寺建立令がでているが、能登の国分寺創建がおくれたのは、このような国の扱いの変化と関係しているとも考えられている。

院内勅使塚古墳 石室内部 能登国分寺址

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