寺家遺跡
矢印が寺池(じけ)遺跡

寺家遺跡は羽咋市の海岸砂丘の下5m以下の部分にある、奈良から平安にかけての祭祀遺跡である。砂丘は9世紀頃と14世紀頃に急成長したもので、この砂丘の成長で遺跡の命脈も絶たれている。

遺跡は邑知潟そばにあり、すぐ北には眉上山が丘陵になって海に落ちる岬がある。岬には古墳が多く分布するが、海上交通の立場から見れば、よい目印となるところである。ここから浜に向かい邑知潟に入れば天然の良港と言うことである。

ここに律令国家との関係の深い寺家遺跡がある。ここからは、広範囲の焼土が出ていて、ここでかがり火のような火が焚かれていたことが分かる。そおして、海獣葡萄鏡、素文鏡等、8,9世紀の祭祀遺物が多数発見された。同時に、付近から建物跡も出ている。7世紀には竪穴建物であるが、8世紀後半に入った頃、掘っ立て柱式の建物に変わる。8世紀に入りここが朝廷にとって重要視されたことが分かる。このような建物が9世紀にかけて増築されている。

こ建物の柱から牛馬の歯や獣骨が出土する。そのために、異国の神の穢れを祓う儀式がここで行われたのではないかと考えられる。ここからはガラスるつぼも出土していて、朝廷から祭具を作るための宮廷職人が派遣されていたことモアから。当時能登が渤海交流や、東北との交流の拠点であったため、作られた施設ではないかと考えられている。

な この祭祀遺跡が活動していた頃、近くのシャコデにも寺があった。シャコデとは釈迦堂がなまったもので、祭祀遺跡と仏教寺院の融合がここに見られる。ところで、この近くには気多大社(現在は独立の宗教団体。元は気多神社)がある。考古学的には寺家遺跡と気多大社との関係も考えられる。一方で社伝では、気多大社創建当時から現在の場所にあったことになっているのである。ただ、気多神社も8世紀に急に神階が高くなっている。渤海渡航の守護と共に藩神の侵入を祓うためであったとされる。

祭祀地区大型焼土遺構 神の字の「墨書土器」 (参考)気多大社(旧気多神社)

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