野田山墓地

尹奉吉義士暗葬之碑

野田山は加賀藩以来現代に至るまで墓地として使われている山で、全部で6万基の墓がある。頂上部に加賀藩主前田一族の墓、その周囲に家臣の墓が存在する。その中で、初代前田利家の墓から10mほどのところには豪姫の墓がある。豪姫は宇喜多秀家夫人で、文禄の役の時にソウルで孤児となっていた金如鉄を岡山に連れて来て養育した。金如鉄は日本に来たとき7歳だった。翌年豪姫は金如鉄を連れて金沢に来て、母お松さまに養育を依頼した。さらに関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が八丈島に流されると、豪姫は金沢に戻り、再び金如鉄を養育した。金如鉄は加賀藩の士、脇田直賢として成長していった。前だけの墓は方墳形式で築かれている。豪姫の墓もそうなのだが、手入れが十分でなく墓土が流出してしまし、荒れた感じに見える。

前田家墓地の下には家臣の墓がある。さらにその下方には「石川県戦没者墓園」がある。ここには西南戦争以来、戦闘で死亡した陸軍の人々の墓がある。それぞれ慰霊碑、将校、一般の軍人の墓などに区分されている。その中に、ロシア人捕虜の墓もある。朝鮮、南満州の権益を争った日露戦争のときの死者である。日露戦争当時、日本は条約改正のためにも、国際法を守ることのできる国であることを欧米列強に示そうとした。このような墓を作るのも、捕虜を国際法に乗っ取って扱っていることを標榜するものであった。このような国際法を守る態度は、シベリア出兵の前まで続いたとされる。墓の前には歴代の「ソ連大使」が植樹した木が数本植わっている。

戦没者墓苑から下ったところには、尹奉吉の墓がある。韓国では「独立の英雄」とされる。尹は1932年4月29日、上海の公園で日本軍が行っていた天長節の式典会場に爆弾を投げた人物である。これにより、白川義則ほか1名が死亡し、多くの重軽傷者を出した。重傷者の中には重光葵もいた。このようなことから、韓国で独立の英雄とされる尹は、日本ではテロリストとして扱われる。尹は裁判で死刑を宣告され、金沢に移送。同年12月19日に銃殺された。そして、野田山墓地の通路に暗葬された。戦後、その場所を見つけ出し、遺骨を韓国に送った。そして、暗葬された場所に碑を建てた。ここには頭髪と遺影が納められている。なお、野田山公園内には尹奉吉の殉国碑もある。

豪姫(宇喜多秀家夫人)の墓 日露戦争ロシア人捕虜の墓 兵士の墓

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