大野郷の遺跡(港湾施設)

畝田ナベタ遺跡方向(左下)

石川県庁の周囲は開発事業で大規模に調査が行われたところである。県庁南側は大野郷といわれるところだが、畝田・寺中遺跡や畝田ナベタ遺跡から港湾施設関係や以前の川跡の遺物が多く出ている。多くの建物跡や、「天平二年」と書かれた墨書土器や木簡などがある。また、畝田ナベタ遺跡から出土した帯留めは渤海から遼にかけての様式とされる。唐の力が弱まった頃のもので、唐の規格以外のものが出現したときのものという。

ここは犀川河口に行く犀川の分流にあり、舟がここまで上がってきたと考えられている。8世紀加賀郡の港跡と考えられている。ここは渤海へ渡航するときの公式ルートの一つで、渤海へ向かう人が滞在する場所でもあった。ここには「津司(渤海使を担当すると思われる役職)」がおかれていて、「語」と書かれた墨書土器があるように、通訳もおかれていた。なお、墨書土器にある「天平二年(730)」は第一次遣渤海使の引田虫麻呂が無事に加賀郡に到着した年である。

9世紀に入ると戸水遺跡の方が港湾施設の中心となった。823年に加賀国が出来たことと関係すると考えられている。郡の港ではなく、渤海の交易などをここで加賀国が「国府津」を作り管理しようとしたと考えられている。

渤海使が来たときに、私的な交易は禁止されているが、戸水遺跡からは「市」と書かれた墨書土器が出土している。また、畝田遺跡の方も、私的な荘園を通じて渤海と交易していた跡が見られると言われる。ところで、渤海交易の中心からはずれた畝田遺跡は、東大寺などとの交易が行われていたという。この近辺に東大寺の荘園があったからである。

9世紀頃から海岸砂丘が発達し、港の位置は変わるが、ここの港は使い続けられた。加賀藩がここを拠点としたとき、加賀城から港まで一直線の道を作っている(城内は意図的に曲げられている)。このように加賀藩も交易の場として港を重視していたことが分かるといえる。




戸水遺跡(中央の川の右側) 「天平二年」の墨書土器 「語」の墨書土器
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