松代大本営
地下壕の案内図 地下壕の様子

太平洋戦争終結間近、陸軍の発案によって大本営を地下壕に移転することとした。場所は長野県松代に選ばれた。海から遠いこと、岩盤が固いこと、城下町の伝統から人の口が堅いこと、掘り出した岩を捨てることの出来る平地があることなどが選定理由だったようだ。

首都機能を移転するために、大規模な工事となり、3カ所の山に壕が掘られた。50m×20mの区画で通路が掘られた。通路の巾は4mであるが、そのうちの 3m分は部屋として設計された。終戦時に使われていた部分もあるそうである。

工事は1944年11月11日に始められた。倉庫を造るという名目で地元の人や朝鮮人などの徴用者が使われた。発破作業や落盤による事故も多かったようで、朝鮮人の犠牲者もいた。残念ながら名前の分かっている朝鮮人は3名だけとのことである。飯場や慰安所も近くにあり、慰安所の建物は解体保存されている。

現在公開されている部分は、佐久間象山の生家のある「象山」の下に掘られたもので、500mほどを見ることが出来る。中央電話局、日本放送協会などが移さ れることになっていた。壕の完成は1945年10月の予定だったため、これらの施設が移されることはなかった。ここには「大邱、大邱府」と書かれた落書きが残されている(非公開の区域のため、写真で展示)。別の場所に掘られた壕にはハングルで書かれた落書きも残されている。

工事で出された礫は谷地に積まれていたが、戦後GHQの手により厚木基地の工事に使われたり、東京の道路の舗装に使われたりしたという。


トロッコのレール跡 「大邱」の文字(写真のみ公開) 朝鮮人供養の碑

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