内山里古墳群
古墳群から西方を見る

松鶴洞古墳群の東側15キロほどの所にある。固城半島の付け根だが、本土とは狭い海峡を隔てた位置にある。全部で61基残っているが、本来は100基以上あったと考えられる。固城松鶴洞古墳分に匹敵する規模と意味のある場所で、古墳は東西にのびる低い段丘上の地形の場所に、東西方向に列をなす。

古墳群西方にある山には、伽耶時代の山城が残っている。山の反対側は固城方面への狭い湾が広がる。この湾の最奥部は小伽耶の中心地、固城にほど近い。一方古墳群の東側は、安羅伽耶が倭などとの貿易に使っていた鎮東湾および東シナ海である。そのため、交易上重要な場所にあった勢力で、浦上八国の1つだっただろうと考えられている。小伽耶とは連合勢力的な地位にあった。

古墳は1つの墳丘に主槨のほかに土壙墓が作られるもので、松鶴洞古墳群に構造がよく似ている、ここからは百済武寧王陵出土の銀製腕輪に類似したものが発見されている。また、倭系の須恵器が発見されているなど、倭との関係も強い。これらの出土品から、6世紀前半から中葉の伽耶末期の古墳群と考えられている。

古墳群より東方(未整備で墳丘は低い) 東端は東シナ海(中央) 西側の海峡(陽村付近)

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