河東(帯沙)
突き当たりが河東

光陽湾、麗水水道に流れ込む蟾津江の河口部分にある小都市である。現在は河口より多少内陸に入っているが、古代は河東付近まで海が入り込んでいたと考えられる。現在、河口堰が出来ているものの、ここで採られたシジミが名物であるくらい、汽水域となっている。

伽耶時代、ここは大伽耶の領域の一部だった。日本書紀に出てくる帯沙とされている。大伽耶は新羅の勢力圏に入った洛東江が使えないため、蟾津江を交易路に使ったと考えられる。川の上流は智異山に連なり、本流は南原市までさかのぼる。その港である。また、「任那四県」とされる順天地域にいくためには、大伽耶から必ず通らなければならない陸上交通の要所でもあった。

ここは百済との関係で緊張関係に陥ったところである。475年、百済は高句麗に攻められ、都だった漢城(現ソウル東部)が陥落した。そのため、都を熊津(公州)、泗比(扶余538年)に移す事態となった。百済は南方への圧力を強め、伽耶南部にも向かった。

蟾津江を含む麗水半島の一帯は百済の交易に重要な場所だった。そのため、512年に「任那四県」に対して攻撃をし、513年に己汶、帯沙を手に入れる。これに対して大伽耶と対立する。最終的に百済側にここを抑えられた大伽耶は、南江を利用して、あらたに固城(小伽耶)を交易口としたと考えられている。

なお、己汶は正確な場所はわかっていないが、蟾津江上流のいずれかである。南原、任実などがその候補地としてあげられている。

河東市街地(国道2号線、バス内より撮影) 蟾津江河口方面 上流の河原(岳陽平沙里)

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