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5.博物館のミイラ
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 ウルムチ市内の「新疆ウイグル自治区博物館」を見学した。いろいろな物が展示されているが、ショッキングだったのは桜蘭やニヤ等の遺跡から発掘された4,000〜3,000年前のミイラである。ガラスケースに入れられて無造作に展示されており眼前で見学できた。

 エジプトのミイラは内臓を取り除き薬品処理を行い身体を布で巻いて埋葬されているが、こちらのミイラはただ土葬しただけである。ミイラにするつもりなどなかったが、砂漠の乾燥気候で結果的にミイラになっている。従って王族や金持ち以外の一般の人もミイラで発掘されるが、衣装や副葬品に学術的価値がないので発見されても捨てられるとの説明だった。

 かつて日本にも「桜蘭の美女」のミイラが展示され、大変な騒ぎになったと聞いた。このミイラも目の前にあるが、発掘時に薬品処理され顔は真っ黒になっている。ところがここでは薬品処理されていないミイラもあり、それは4,000年の時を経ても数日前に埋葬されたように顔も生々しい。髪の毛を引っ張っても抜けないと言う。赤ん坊のミイラや夫婦のミイラもあった。何れも綺麗な衣装を着せられ丁寧に埋葬されている。衣装もかなり保存良く残っている。

 これらのミイラは放射性炭素年代測定により、百年の誤差で推定できるとのこと。DNA鑑定すれば民族までは分からないが種族は判別する。それによると大部分のミイラはアーリア系の種族(インド・ヨーロッパ語族)だと言う。体格も現在のウイグル人より大きいように見える。シルクロードの歴史はギリシャのアレキサンダー大王や前漢の武帝の頃の張騫により切り開かれたかのような説明がされるが、それより遥か以前にアーリア系の遊牧民により交易は行われ、この地方にも文明地帯があったのである。

 唐の玄奘がインドに往復した頃の現地語は亀茲国、于闡の何れもアーリア系の言語であった。唐代にはクチャやトルファンの地方では漢族も屯田しさらに仏教文明が栄え、そして西ウイグル帝国がその仏教文明を継承した。ウイグルはアルタイ語のテュルク系である。
 10世紀のカラ・ハン朝成立以降になるとイスラムが西から伝わりこれらの仏教文明を破壊し、さらにシルクロード交易が航海技術の発展により海洋交易へと変遷するにつれこの地の文明は急速に衰えた。
 
 現在のこの地方の言語はアルタイ系である。上述のようにこの地方はアーリア人を主役とした時代からアルタイ系のテュルク人に支配された時代への転換があったのである。そして文化の面ではアーリア時代にはインドやイランの文化を基調とした仏教や拝火教の高い文化が花開いたのに対し、10世紀以降のテュルク時代はイスラム信仰の上に建つものであり、その二つの文化の間には明確な断層がある。しかも文化の活発さと華々しさでは前者が後者に勝っている。文化は後退したのである。
 今回の旅行で見学したスバシ故城や高昌故城あるいはキジル千仏洞などは前者のアーリア文化の延長線上で高度な文化が花開いた時代のものであり、見飽きるぐらい多くの遺跡を見学させられた。

 清代以降ウイグル族が多いこの地に漢族が大量に移入し、現在では中国政府の方針の下で急速に近代化されつつある。

 ウイグル族も9世紀頃の西ウイグル帝国を誇った時代の方が現在より覇気があったであろう。しかしそれは彼ら独自の強力な文明ではなく仏教文明を引き継いで発展させたものであり、他地方に強力な影響を及ぼすほどのものではなかった。


 
 以上は私が旅行中に得た断片的な知識なので表現に不適切な箇所も多いと思う。しかし印象強く思ったことは、歴史は時代により進化・発展するとの概念は日本のように単一民族の歴史の場合に言えることであり、タクラマカン砂漠や中央アジアの歴史は「民族と宗教の争覇」の観点から理解しないと説明できないと思う。文明は発展せずに衰退あるいは消滅する場合もあるのである。

                                       続く

                       2003年10月7日 記