テレビ番組
視聴評論
NHKスペシャル 新シルクロード
放映日
執筆日 2005/11/25
第9集 「カシュガル 千年の路地に詩が流れる」 を視聴して
(本稿は、別途開設しているブログ “「新シルクロード」雑感” より転記したものです)
新シルクロード第9集:「カシュガル 千年の路地を詩が流れる」を録画にて視聴した。従来は放映日に必ず視聴していたのだが、今回は所用があり止むを得ず本日(11月25日)となった。
番組の感想は複雑である。
テーマの一つは、かつてモンゴル草原に興った遊牧騎馬民族のウイグル民族が、流転を繰り返しながらカシュガルに辿り着き、民族を襲った幾度かの悲劇をくぐり抜けて来た歴史的事実である。これらウイグル民族の過去の悲劇は、シルクロードの壮大な歴史の一環と見なせる。
もう一つのテーマは、中国政府の改革開放政策と観光化の荒波の中で、カシュガルの古い路地からウイグル民族の伝統が消滅しつつある悲劇と哀愁である。
この過去と現在の二つの悲劇の共通のテーマ音楽として「ディラクエ=魂の叫び」というウイグル民族の伝承曲を絡ませ感傷的に番組が構成されている。映像技法的にもかなり凝っている。
現在のウイグル民族の悲劇は中国政府の政策と密接にリンクしているので、中日共同制作番組としての解説は、抽象的かつ控えめであり番組解釈は視聴者の歴史認識、現実認識により如何様にも変化する。従って視聴者の問題意識のレベルによって番組の感想も変わると思う。私としては過去の悲劇と現在の悲劇をはっきり区別し、現在の悲劇を歯に衣を被せずに放映して欲しいが、これは将来歴史が変わらない限り到底無理な注文であろう。漢民族文化の包囲網と力関係の中で、少数民族の独自の生活様式とその独自文化の消滅はもはや後戻り出来ない所まで進んでいる。
沿岸部の豊かになった漢民族がウイグル民族の住居に観光で訪れる場面がある。その漢民族の傲慢で礼儀をわきまえない振る舞いに腹を立てた視聴者も多いと思う。ウイグルの人達の優しい顔つきと観光客の思い上がった顔つきが対称的であった。
しかしそれならば、日本の観光客はどうであろうか? 日本の観光客は沿岸部で豊かになった漢民族の観光客以上に金を持っている。そしてその傲慢で無神経な振る舞いを私は数多く見てきた。
近代化で豊かになると言うことは、決して精神が豊かになることではないと思う。また年を取ればわきまえが深くなり礼儀正しくなるものでもない。
家族関係、人間関係を重視し、自然と共生することを基本としてきた少数民族は経済的には貧しいかも知れないが、その顔つきは人を疑わず心は純真かつ豊かである。特に老人と子供に対してはそのように思う。対して、近代的で豊かな生活をしている優勢民族の多くは少数民族の文化が遅れていると見下すが、その顔つきは拝金主義的で傲慢である。
私は旅行をする度に私のホームページで「心の文明度は現地の方が高い」と旅行記に記して来たが、今回の番組でもそのように思った。あのヨーヨー・マのテーマ音楽ですらウイグル民族の「ディラクエ」に較べれば、音楽の本質である「魂の叫び」を離れ、技巧に走った編曲のように思われる。
もう一つ印象的な場面として、ウイグル民族の小学生がウイグルの学校で中国語を習い、中国を讃える歌を歌い、かつ世の中の(中国の)為になる人に将来なりたいと語る場面があった。子供達は本心からそう思っている。
民族間の争いではどちらが正義で、どちらが悪とかの経緯はない。強いて言えば「勝てば官軍」、即ち強い民族が歴史の現状では正義となる。従ってウイグル民族と漢民族の関係で言えば、過去はともかく現在では漢民族が正義となる。
しかし、弱い民族が悪者ではない。強食弱肉の歴史舞台でたまたまその地に生まれただけの運命としか言いようがない。
民族衣装や民族芸能は観光資源としては残るであろう。但し観光事業で豊かになるのは多くの場合、中国の流通経路を握っている漢民族である。それにも関わらず民族のアイデンティティを守り抜きたいとの意思表示も含めて華やかな民族衣装を着て観光客にサービス行い、かつ収入源ともしている。
冒頭の「感想は複雑である」との真意はここにある。
私は最近ベトナム北部の少数民族を訪れたが、その時の感想と共通する感想を今回の番組でも感じた。了