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NHKスペシャル 新シルクロード
放映日 2005/5/8
執筆日 2005/5/8
再々度「ヨーヨー・マ」について
(本稿は、別途開設しているブログ “「新シルクロード」雑感” より転記したものです)
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本日NHK教育テレビで「新シルクロード」シリーズに関連して、ETV特集「ヨーヨー・マとシルクロードアンサンブルの仲間」が放映され大変興味深く試聴した。
ヨーヨー・マが「東西の文化を融合して新しい音楽を生み出す」ことを目的として、「東西音楽の融合」「旅を通じて世界の人々と交流」「音楽が文化の大使となる」の3つの理念を軸に、バイタリティ溢れる活動をしている様に大いに共感した。

物事を単純に東と西に区分けすることは問題もあるが、東と西の文化はそれぞれ異なった特徴を持っているので、融合により双方の特徴がさらに相乗効果を生む場合と、逆に融合により互いの特徴が薄められてしまう場合があると思う。
ヨーヨー・マの東西音楽の融合の試みはこの様な目で見て非常に興味深い。

文化の融合の突飛な例を挙げると、フランス料理と中国料理と日本料理を融合させると一つの素晴らしい料理が生まれるだろうか? 否である。 この場合は、例えばフランス料理を基本にして部分的に中国の素材や日本の味付けを取り入れて全体をまとめることになるであろう。
別の例として、モネやゴッホが日本の浮世絵の影響を受けたと言っても、やはり彼らの絵画と広重や北斎の絵画とは別世界のものではないだろうか?
このように見ると、異なる文化を「対等に融合する」事は言葉で言うほど単純でなく、文化の融合と文化の吸収の区別も微妙である。生存競争の厳しいビジネスの世界でも、会社の対等合併と吸収合併がありその意味は大きく異なる。

番組中ではシルクロードアンサンブルのメンバーによる民族音楽の取材場面や、メンバーの出身地の民族楽器を演奏する場面がたくさんあった。
例えばアゼルバイジャンのムガームの歌、カザフ族の村人がトングラで奏でるツバメの歌、イランのクルド族出身者が奏でるカマーンチェ、アルメニアの楽器ドゥドゥーク、インドの不思議なリズムを発する太鼓の1種タブラー‥‥。何れも現地の人が現地の楽器により現地の音階(例えば17音階)や現地の不思議なリズムで演奏されていたのでゾクッとするほどの新鮮さと感動があった。音楽はもとより演奏者の人間性も深いように見えた。

古のシルクロード時代の音楽は、癒しのためではなく厳しい生活そのものであった。労働作業に直接結びついているか、または労働そのものを宗教に関連させた音楽だった。恋歌にしても、癒しでなく生存そのものの真剣な恋歌であったと思う。音楽はその地方独特の生活に密着した個性を持っていた。生きる意味を見つけるために音楽があるのであり、演奏家は現在のように音楽のエリートではなく普通の村民だった。
そして数千年にわたるシルクロードの時代に、各民族は互いに音楽を交流させつつも各民族の個性ある音楽を頑なに守り続けてきた。

しかしそれらの個々の個性ある民族楽器による民族音楽が、各国の音楽家の意見を取り入れ、各国の楽器と組み合わされて演奏されると、効果が増す場合もあるが逆に独特の印象が薄くなるように感じられる場面もあった。確かに楽器が増えたために音楽は厚みを増し、さらにダイナミックになり、そして聞き慣れた音階に編曲されているので聴き心地よい音楽にはなっているのだが‥‥。
自己主張の強い西洋楽器のバイオリンやビオラやチェロが主役になった場合、民族楽器は端役に回っているように見えるのはひがみだろうか。私には民族楽器が主役になっている部分は新鮮であった。

シルクロードが東西文明を交流・融合させたことは間違いないが、それならば何故ガンダーラの仏像・中国の仏像・日本の仏像は違った個性を持っているのだろうか。「仏教が西から東に交流・融合しながら伝来した」との説明だけでは納得できないところがある。交流・融合してもなおかつ各民族の風土・国民性が厳然とあるからではないだろうか。

このような意味で私は「新シルクロード」の音楽としては、東西の音楽の融合による素晴らしい成果と併行して、各民族の生活感溢れる音楽そのものを多くバックに流して欲しいと思っている。「各民族の文化そのものを優劣なく互いに尊重し合う」ことも大事だからである。了
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