クンダサンの風景
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写真−74
2008.4.18
am9:35
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北ボルネオ死の行進‥‥
太平洋戦争で日本の敗色が色濃くなった1945年に、「北ボルネオ死の行進」 と呼ばれる悲惨な事件が起きた。日本軍のボルネオ守備司令官は、東部海岸地帯に展開していた部隊のほぼ全員を、北西部海岸のアピ(コタキナバル)を中心とした地域に集結させる決定をした。同時にサンダカン捕虜収容所に収容されていたイギリス・オーストラリア軍捕虜全員をラナウ(キナバル山の麓)まで移送することにした。

移動ルートはアメリカ軍の爆撃を避けるため、道なきジャングルの中を移動した。殆どが湿地で、多数の兵士が歩いたため泥沼状になり、さらに重装備に苦しんだ。

この悲惨な移動中、多数の捕虜と日本兵が、暴行・餓死・マラリア・アメーバー赤痢・栄養失調などで死亡した。

犠牲となった人数は諸説あり、どれが信頼に足る資料か分からないが、捕虜2000名余りの中で生き延びたのは3名とか、7名とか、または2400名が死亡したとか記されたものもある。日本兵も数百名が死亡している。

このような状況下での正確な数値を検証することは多分不可能に近く、諸説には倍半分の誤差があるかも知れないが、架空の話ではないことに留意する必要がある。

帰路、マシラウ・ネイチュアーリゾートからコタキナバルへ向かう途上で、クンダサンの金曜市場を見学したが、クンダサンはラナウの近郊である。クンダサンには犠牲となった捕虜を悼んでMemorial Gardenが建立され、毎年慰霊祭が行われているとのことだが、ツアーでは説明も案内もなかった。海外ツアーでは立場の異なる関係者が多いので、政治的な話しはしないのが常識である。

また、我々が通過した道路の両側は、上の写真の如く、すでに開発された地域だったが、当時は湿地や60mの樹高の鬱蒼たる熱帯雨林のジャングルだったので状況は全く違ったであろう。

この事件の2年前には、アピ(コタキナバル)で華僑を中心とする抗日ゲリラにより約50人の日本人が殺され、鎮圧した日本軍により414名の華僑他が処刑されている。

同様な事件が太平洋戦争当時、東アジア、東南アジアの各地で多数起こり、しかも私が既にこの世に生を受けていた5歳の頃の出来事であったことを思うと、楽しいキナバル山登山とは別に、人間の負の部分を思い出し複雑な気分にもなった。

旅行出発の1ヶ月前にも、中国のチベットでチベット僧侶などによる暴動が起こり、鎮圧で多数の死者を出している。