江草村の
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ルーツを訪ねる旅
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4−8 若神子城趾の烽火台  (須玉町若神子地区)




若神子城趾

甲斐源氏の祖である源義光の伝承を持つ県下唯一の城で、連郭式という中世の古い形式を持つ。古城(大城)の南北にそれぞれ北城と南城があったことが判っている。
古城跡はふるさと公園として整備され烽火台が復元されている。
武田信玄はたびたび若神子城で陣立てを行った。若神子を起点とする上の棒道もこの城域を通過するなど重要な城であった。

天正10年(1582)に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡した後に、武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦った(天正壬午の乱:1582年)。
この際、北条氏直はこの若神子城を本陣とし、江草城(獅子吼城)にも北条勢が立て籠もった。一方の徳川家康は韮崎の新府城を本陣とし、戦いは徳川の勝利で終わった。

発掘調査では薬研堀や箱堀などが発見されたが、これらは義光の時代のものではなく後の天正年代に北条氏の軍勢が陣を張った時のものと思われる。
若神子城趾
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2007年8月27日筆者撮影
この城址は山の上部が広く平らに掘削されて「須玉町ふるさと公園」となっており、もはや城の面影は全くない。烽火台が復元されているが、周囲の近代的な光景とは馴染まない。夜間に山裾に鳥居型の大きなイルミネーションが点灯されるがこれも人工的な感じである。

「先人たちが育み、築き上げてきた文化に親しみ、誇りの持てる郷土を守り、育て、末永く後世に伝えるのがこの公園の主旨」と案内板に記されているが、それならば旧来の地形を残した雰囲気ある公園にして欲しかった。