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訪問した国々の激しい変化
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§5.ベネズエラの変化
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カラカスのビジネス中心街。
(1978年2月)
マラカイボ湖。
(1978年5月)


ベネズエラを訪れたのは1978年の2月と5月(私が37歳の時)、今から25年前である。

ベネズエラがどのような国か全く知識が無く、現在でも殆ど無い。出張の目的は、マラカイボ湖の近辺に巨大な製鉄所を建設する計画があり、それに応えて、英、独、仏、日の4ケ国の会社がコンソーシャムを結成し現地調査団を組んだので、日本のメンバーの一員として参加した。リーダーは英であった。私はこの時、経験、業務能力、語学力、人間的迫力の全てを含めて不足しており赤面の思いであった。

首都カラカスの都心部は、近代的な明るい感じの大都市で治安も良かった(一度、日本人を殺せと書いた落書きを見たが)。

街の周囲を囲む山々の山腹に、遠くから見るとクリスマスツリーのように、明かりがたくさん見えるので何かと聞くと、それは貧民街であるとの返事だった。少数の裕福層は都心に住み、多数の貧民層は周囲の山腹に住んでいるとのこと。

しかし、貧民街でも電灯が明るいので、ある程度の生活はしていたのだろう。

製鉄所建設予定地のマラカイボ湖にも行った。そこで印象的だったのは、オランダ系の現地ゼネコンの人が、「自分はオランダから派遣されて来たが、ここで現地の女性と結婚した。オランダには一生帰るつもりはない」と言っていたことである。このオランダ人には故国へ帰るとの意識が無く、当たり前のように現地に帰化していた。日本人は、なかなかこのようにはなれない。

検討を進めている間に、ベネズエラのペレス大統領が翌年の1979年失脚し、この製鉄所建設計画は消滅してしまった。ベネズエラの最近30年間ほどの変動を概観してみよう。

ベネズエラは他の南米諸国と同様、めまぐるしく大統領が交代していた国である。しかし石油の発見によって、経済的かつ社会的構造基盤の変化が起こり、民主勢力の伸長をみる様になった。ベネズエラは多党性による民主主義体制を40年近くも維持しており、ラテン・アメリカ諸国の中で最も長い民主主義の歴史を有する国家となっている。

1988年にペレスは再び大統領に選出され、経済、政治制度の長期的かつ一連の改革を実行している。1992年に2度の軍部ク−デ゙タ−に直面した時、ベネズエラの民主主義はその根強さを見せ力強い成長を示した。クーデターの経緯は次のようなものであった。

1990年前後に東西の冷戦が終わると、アメリカが中南米に求めたことは、「軍事」より「経済」となった。こうした変化の中、中南米では少数裕福層による支配を批判し「貧民のための政治」を掲げる政治家が選挙で勝ち始めた。1990年にペルーの大統領となったフジモリもその例である。ベネズエラのチャベスも同様で、彼は1992年にクーデターを決行したが、失敗する。

だが意外なことに、クーデターを起こしたことにより、彼は「反裕福層・反米」の闘士であることがベネズエラの多数派である貧困層に理解され、6年後の1998年の選挙で大統領になることが出来た。一度クーデターに失敗して牢獄に繋がれた人間が、後に選挙で大統領になった例が他にあっただろうか。

チャベスは2000年8月、イラクを訪問し、さらに米国のアフガニスタン攻撃を批判するなど反米的な発言を行っている。

もともとチャベスは、左翼ゲリラ掃討の任を持つ軍人であった。しかしある時期から、「貧しい国民が左翼を支持するのは、左翼が、貧富の格差を放置してわが国を支配する裕福層とアメリカに敵対しているからだ。敵は共産主義でなく、帝国主義だ」との考えに傾いたと言われている。 

「石油」と「軍事」の勢力を背景にしているアメリカのブッシュ政権にとって、こうしたチャベスの振る舞いは好ましいものではなく、軋轢が続いていた。2002年の4月には、経営者団体が後押しするクーデターが起こり、チャベスは一時失脚したが程なく復権した。
さらに2002年の7月、9月、10月とチャベス辞任を求めるデモが勃発し混乱が続いている。

ベネズエラは日本から見れば、一般には殆ど情報の無い国である。南米と言えば、アルゼンチンのフォークランド戦争や、ペルーのフジモリ大統領、それとブラジルのサッカーくらいしか報道されない。しかしベネズエラもまた他の国々と同様、複雑な変動を辿っている。変動の大きな要因は石油である。

平成14年11月12日 記






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