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訪問した国々の激しい変化
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§3.中国(上海)の変化
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上海新駅の建設工事。
この頃上海市内は高層ビル、道路、鉄道、橋梁、歩道橋の建設および旧住宅の取り壊し工事が盛んに行われていた。 
(1986年10月)
上海市内の住宅街。
飾りもおしゃれもなく、生活に必要なものだけが有る感じ。
(1986年10月)

「まず一部が豊かになり、次に全部が豊かになる」。

ケ小平が1978年発表した現実的な改革開放政策の考え方である。上海の浦東地区の開発はその代表例であり、ここを先ず豊かにして、次に揚子江流域全体を豊かにするという構想であった。

浦東地区とは上海旧市街地(浦西)の黄浦江対岸地区を言い、その面積は522km2、東京23区以上ある。

しかし殆どが国営農場の未開発地域であり、当時上海市の地図を購入しても、そこは空白の地帯であった。
ここを国際的な経済・金融・貿易センターにしようとの一大構想である。

上海旧市内から浦東地区に行くには、幅約600mの河川の黄浦江を渡る必要があり、そこに橋を架ける商談(技術説明)のため上海に出張した。第1回目は1986年10月、私が46歳の時である。この時は続けて3回、上海他を訪れた。

この橋梁の商談は当初円借款案件であったが、結局中国が自力で建設することになり、南浦大橋の名で91年に開通した。

当時、上海市内はごった返した雰囲気であった。街路のいたるところで、湧くように人の群れが溢れ、さらに自転車が密集して走っていた。その中を自動車がアクセル一杯に踏み込んで、まるで牛若丸のようにヒラリ!ヒラリ!と歩行者や自転車をかわしながら猛スピードで走った。80年代初頭までは殆ど車が無かったが、当時は急激に車が増え始めた頃であり、その無秩序かつ乱暴な交通状態に驚いた。車に乗るたびに怖くて座席にしがみついていた。

浦東地区の本格的開発が始まったのは90年からである。93年には楊浦大橋も完成、95年には上海市内の地下鉄1号線、97年に徐浦大橋、99年に地下鉄2号線が開通し、人口 1600万都市上海の交通手段も整備されて来た。

次に私が上海を訪れたのは、8年後の94年、54歳の時である。完成して間もない楊浦大橋により黄浦江を渡って浦東地区に行き、帰りは南浦大橋を渡った。どちらも立派な斜張橋である。案内人がしきりに自慢していた。この浦東地区には高さ東洋一の460mのテレビ塔も完成し、巨大なビル群が立ち並び(または建設途上)、広大な道路はあちこちを掘り返し工事中であった。

浦東地区ではコンテナヤードを見学した。旧市内にもコンテナヤードはたくさんあり記憶は曖昧だが、何れも広大な敷地にコンテナクレーンが林立し、または今から建設される状況であった。さらに海上約30km沖合にコンテナターミナルを建設し本土と橋で繋ぐという巨大なプロジェクト構想もあるらしい。上海港は名実ともに世界有数のコンテナ基地に発展するのだろう。

2002年には不便だった虹橋空港に変わって、浦東地区に国際空港が移転している。空港と上海市街を結ぶ世界最速のリニア軌道も間もなく完成する。

さらに黄浦江には世界最長のアーチ橋の盧浦大橋も建設されるらしい。トンネルも、黄浦江観光歩行トンネル含め既に数本開通している。

以上は主として、上海浦東地区のインフラに関しての記述であるが、本来の目的である経済・金融・貿易も凄い勢いで発展しているとの報道を新聞などで見る。都市が短期間に爆発的に発展する見本のようだ。

是非、近々もう一度上海に行って、この10年間の変化を確かめたいと思っている。本文はそのための準備である。

ただし冒頭の、「まず一部が豊かになり、次に全部が豊かになる」の方針の中で、浦東地区は豊かになる地区の代表例であるので、浦東を見て「これが中国だと」思ったら間違いであろう。同様に中国の貧しいところを見て「これが中国だと」思っても間違いだろう。

上海の他に、北は青島、南は広州にも行ったが、兎に角中国は広いのである。


注:上記は、断片的な記憶や断片的に記事などを調べた結果なので、公平性・正確性は保証できない。また上海の土地勘が無い人がこの文章を読んでも良く分からないと思う。

平成14年11月10日 記








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