change003005.jpg
全体目次へ
訪問した国々の激しい変化
change002004.jpg
訪問した国々の激しい変化のトップへ
§2.ルーマニアの変化
change001007.jpg change001007.jpg
前へ
次へ
ブカレスト市内。
雪の降る寒い朝、徒歩で出勤する人々。
(1988年1月)
コンスタンタ市内。
雪の中を家路を急ぐ家族。
(1988年1月)
ルーマニアの首都ブカレストと、ドナウ川の黒海河口の都市コンスタンタに出張したのは、 1988年1月、私が47歳の時である。

当時のルーマニアはあの悪名高いチャウセスク政権下である。

チャウセスクは国民に厳しい耐乏生活を強いていた。彼は権力を確立した直後には、旧ソ連軍が東欧から撤退することを要求し、さらにアメリカや西欧諸国と友好関係を深め、西側から巨額の資金供与を受けるなど、東欧の共産主義政権としては独特の政策を展開した。

その西側の資金を使って、巨大な石油精製設備を国内に建設した。既に生産量が減少している国内の油田からではなく、中東から原油を輸入し、国内で精製して輸出することを考えた。

しかし、そこで起こったのが二度にわたる石油危機である。原油価格は高騰し、ルーマニアの石油精製設備は大赤字に陥った。

そこでチャウシェスクは、西側からの借金を返済する資金を確保するために、輸入を制限し市民の生活を抑制した。

例えば、ホテルの建物は立派ではあるが、電力不足のため殆ど暗がりのホテル生活である。列車は夜になっても灯りが点かない。駅に降りると、人が群がっているが真っ暗である。ブリキの食器で食事をしていた。

一方、独裁政権下での土木工事は素晴らしい。ドナウ川河口のコンスタンタでは川をショートカットし、そこに巨大な橋梁を架ける工事をしていた。橋梁の重量は確か3〜4万トン
と言っていたが、僅か半年で架設したと聞いた。日本では考えられない早さである。集中的な投資と人海戦術によるものであろう。

人々は親切で暖かい。寒い駅のプラットホームでは、防寒着が貧弱な日本人に冷たい風が当たらない様に、皆で周りを囲んでくれた。耐乏生活の中の薄暗いホテルの宴会場では、楽しい民族楽器を鳴らしながら地元の人達が踊っていた。多分結婚式でもあったのであろう。元々民度の高い国である。

但し共産独裁政権下では経済のバランスが極端に悪かった。チャウセスク一族に富が集中する一方、国民は耐乏生活に加えて情報管制と検閲に苦しんだ。

私のルーマニア出張の1年後からは、特に激しく東欧が変化した時代である。1989年ドイツのベルリンの壁が崩壊した。ポーランド・ハンガリー・チェコスロバキア・東ドイツといった国々が、共産党政権を打倒し民主化への道を乗り出していった。
 
この東欧革命では、共産党が選挙で大敗し政権がスムーズに変わった国や、チェコスロバキアのように無血革命が成功した国もある。

しかし、ルーマニアだけは1989年12月に流血の革命が行われ、大統領の処刑により独裁政権は幕を閉じ、民主化への道を歩み始めたのである。

さらに1991年、ソ連邦は正式に消滅しゴルバチョフ大統領は退陣し、エリツィンによるロシア共和国が誕生した。私が50歳の時である。

これほどにも激しい変化があった時代である。           

平成14年11月9日 記






change001007.jpg change001007.jpg
前へ
次へ