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“高源院”(勝茂の室)の侍女
武富久右衛門のもとに嫁いできたのが、倉町家の娘“三保野”である。
三保野の母は、唐津藩主寺沢家の家臣の娘であったが、御家が没落し、
深堀太夫に助けられて、倉町家に嫁入りしたのであった。

久右衛門は、城下にて呉服店を開業しているが、
佐賀藩政への貢献は、多大なるものがあった。
それは、まず、幕府巡見使が佐賀に下向してくるのに際し、
町中にふさわしい宿泊施設がないことを聞き、新たに家を建て、
宿として提供している事である。
(後に、藩主勝茂公は、度々、この家を訪れている。)
また、長崎警備役の費用を献上したり、長崎商人の借金を肩代わりして
返済するなどしている。
この他にも様々な功労があり、後に“御用達商”の役を拝命する事となる。

久右衛門は、1646年(正保3年)に亡くなり、三保野は、寡婦となるが、
その人となりが大変貞節で順直である事から、
“高源院”(勝茂の室)の侍女として江戸に招かれる事となった。

この“高源院”は、泉州岸和田の岡部長盛の姫君で、
“徳川家康”の養女となって、勝茂のもとに輿入れしたのである。
この高源院には、2人の姫君が生まれ、
姉の“長姫”は、島原藩主松平主殿頭忠房に、
妹の“乙姫”は、倉町家に輿入れしたのである。

三保野は、“長姫”が輿入れする際、侍女の長に任命され、
山の手の屋敷に付き従っている。
そして、数年後、帰国が許され、お暇をいただくにあたり、
幕府より伝えられた『万金丹』の処方を賜っている。
(後に、“万金丹”は売薬として、佐賀藩領に広がる。)
さらに、功労を賞され、終身十口の俸給を賜ったとの事である。

余談だが、三保野は、“乙姫”が倉町家に輿入れした後、
しばしば、深堀太夫を誘い、実家(倉町家)に里帰りしたと
語り伝えられている。

侍女として仕えた人(高源院)の娘が、まさか、
自分の実家に輿入れするとは、夢にも思わなかったであろう。
何とも縁深い話である。



 ※ 倉町家 … 龍造寺隆信、鍋島直茂に従い、数々の軍功を上げている。
        そして、初代勝茂以降の鍋島藩政下では、
        鍋島姓を賜り、家老に列している。

        幕末の分限帳では、次のように記されている。

           鍋島(倉町)志摩 物成1900石 

           倉町 左傳次   物成130石

           倉町 力四郎   5人扶持9石

     

                
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