【武富】の名字の由来に関しては諸説あるが、
通説では、清原氏の一族が豊後国(現在の大分県)にて繁栄し、
その分れの一つが“武富家”であるという。
また、「武富時敏伝」によれば、
坂上田村麻呂の苗裔である本馬八郎義俊の十四世の孫である
馬渡形部小輔俊則が、肥前上松浦に在って、
遥かに、琉球国武富(現在の沖縄県)の地を管し、
これを氏としたとなっている。
この【武富】の地とは、現在の“竹富島”ではないかと思われる。
竹富島は、明治時代になるまでは、【武富】と表記されていたのである。
我が武富家にも島の領有権の証とされる“瓢箪”(ひょうたん)が
実在し、神棚に祭られていたのであるが、今は不明となっている。
[略系図] 征夷大将軍 坂上田村麻呂
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|中略
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第7代 本馬義俊〔 馬渡家創設 〕
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|中略
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第20代 馬渡俊則【 武富家創設 】
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第21代 武富隼人允
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第22代 武富刑部少輔
他に類のない“弓と矢”であるが、
これは、坂上田村麻呂の軍功を賞した
朝廷より、『 弓と征矢 』を賜った事により
起こったと言われている。
武富家伝来家紋【 弓と矢 】
【 武富時敏談 】
井原氏(三溝武富家末裔)の母は、時敏と面識があり、
武富家の由来について(時敏は)、
「 家系図など、人に見せるものではない。
系図上、信用できるのは“馬渡義俊”ぐらいである。
それ以前の“田村麻呂”は、うさんくさい。
ただ、有名人につなげただけかも知れない。 」
と述べていたとの事です。