レポート
私が見た しのだ選挙
■はじめに
しのだ選挙(2002年11月10日投票の新潟市長選)は、不思議な選挙だった。
ジバン(地盤=組織)なし。カンバン(看板=知名度)なし。カバン(鞄=資金)なし。加えて篠田昭には政治活動歴もなかった。そんな篠田が巨大組織に支えられた相手候補に勝ったのだ。
そんなパワーが、しのだ陣営のどこにあったのか。
私は、しのだ選挙を内側から見た一人だが、いまもその答えを探し続けている。

これかな? と思い当たる場面はいくつかある。あくまで断面の一つでしかないが、それをピックアップしてみようと思う。
私にも政治活動歴はない。さらにまちづくり活動歴なし、学歴なしだから、とても的を射たものになるとは思えないが。
■票はいらない?
当時のノートの最初に、テーブルの配置が書いてある。座席にはその人の名前と特徴を記したメモ。篠田に呼ばれて佐渡から新潟入りして2日目、まちづくりの人たちと顔を合わせたときの記録だ。
ほとんどの人と初対面だった。

「篠田が出れば面白い選挙になる」「市政の流れを変える新しい選挙をしよう」「大切なのは組織じゃない。人のつながりだ」
みんなが篠田の出馬を支持した。だが選挙と同意語の「票」とか「戦い」という言葉を口にした人はいなかった。篠田は笑っていた。
(何だこりゃ。こんなことで選挙ができるのか)。私は戸惑いながら聞いていた。そして少しずつ理解した。「この人たちは票の獲得よりも人間を獲ろうとしているんだ」と。
                    ◇

この時期、篠田は精力的に要人と会っていた。正式な出馬表明の前に自分の基本スタンスを伝え、相手の考えを聞き、協力を求めるための奔走だった。もちろん、選挙実務のアドバイスを受ける会合も多かった。

「特定勢力に目を向けるのではなく、市民ニーズを最重視する市民起点の市政をする」。篠田の基本姿勢は広く支持された。
市民派・無党派のまちづくりグループを母体に、政党、経済人を含む要人が個人参加の形で篠田を取り巻く――そんな構図が出来上がりつつあった。

(まちづくりの人たちは選挙の素人だが、いま必要なのはこの素人感覚の政治だ。票を取りにいかない選挙なんて、痛快ではないか)。私は日ごとにまちづくり派の一員になっていった。
                                (敬称略)

                     (しのだ昭応援ボランティア・小泉)
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<04年1月19日更新>
選挙も変えなくちゃ