雷山神籠石
北水門 水門の裏側

百済が新羅に滅ぼされた後、百済復興の動きが起こる。大和政権も百済復興を支援して軍を送った。しかし、白村江で敗亡してしまった。大和政権は唐、新羅に備えて朝鮮式山城を作った。神籠石。神籠石式山城は記録に出てこない山城であるが、朝鮮式山城の一つである。すなわち、谷を横断するように城壁が築かれること。これによって利水と排水の両方が出来る。

雷山神籠石は雷山中腹の標高400mから480mの間に築かれている。城の範囲は東西300m、南北700mと考えられていて、南水門と北水門付近の列石が残っている。発掘によると、石を置いたあと、上に版築を行ったと考えられている。南水門は列席が見られるだけだが、北水門は立派な水門が残っている。高さ 3mほどだが、その下は急勾配となっていて、急速に谷が深まる地点である。

北水門からは前原、糸島半島(博多まで見えると書いてある)が見渡せ、ここが戦略的に重要な地点であることが分かる。

雷山(奥)、神籠石は手前の山 神籠石から見た前原、志摩半島方面 解説板
    
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