アフラシャブの丘
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写真−11
アフラシャブの丘
サマルカンド
2003年7月19日
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ジンギスカーンの文明について ‥‥
アフラシャブの丘にあったサマルカンド町はジンギスカーンにより徹底的に破壊された。 この丘を発掘すると11層の異なった文明が発掘されると のこと。

「サマルカンドやブハラやヒヴァの大文明都市が、野蛮人であるジンギスカーンの襲撃により一瞬の中に灰燼に帰してしまった」と博学な現地ガイドは何度も説明した。自分たちの先祖が、建築技術や高度な芸術を理解しない「人殺し集団」に襲撃され殺戮され破壊され尽くされたことが、さも悔しく怪しからん所作であったとの説明である。

本当にそうだったのだろうか? 確かにホラズムシャー朝は当時世界最強の国家であり、高度な技術と芸術と政治体系を有していた。軍隊の人数も攻略軍より多かったと思われる。では何故負けたのか?

国家は設立から年月が経つと必ず腐敗してくる。王様やその取巻きは自分の権力の維持と快楽が主目的となり、世界情勢を読む眼力も腐ってくる。

一方ジンギスカーンは新興勢力である。軍隊は戦闘に次ぐ戦闘で訓練され尽くされ戦闘隊形の研究と兵站補給、情報収集力、伝令手段も当時として最高のものであったであろう。

従って総合的に見れば、当時の文明はジンギスカーンの側にあったのではなかろうか。そうでないと朝鮮からドイツに至るユーラシア大陸を征服し、世界最大のモンゴル帝国を建設して秩序よく支配出来た筈がない。建築物や宗教書のように視覚的には表せない文明もある筈である。

「ジンギスカーンの方がホラズムより文明が高い」などの議論を持ちかけたら、現地ガイドは真っ赤になって怒るであろう。どの観光案内書にもジンギスカーンは破壊し、チムールは建設したとの説明がある。しかし私の解釈では、「その後蒙古の行政が段々腐敗し、その隙をついてチムールは蒙古を追い出し、再び大イスラム帝国を建設することが出来た」となる。間違いであろうか? 

歴史の跡を巡ると次々に疑問が湧き面白い。