・知恩院
白川から古門をくぐると知恩院の境内に入る。知恩院は、浄土宗の総本山であり、平安時代末期に開祖法然上人が吉水の草庵を開いた事から始まる。法然上人の死後、弟子の勢観房源智上人によって知恩院としての伽藍が築かれた。現在残っている建築物の大半は、江戸時代初期に、浄土宗に帰依する徳川氏によって整備されたものである。
長い坂道の左右に塔頭寺院や華頂学園の幼稚園、短大の建物が続く。坂道を上りきったところに不思議な空間がある。交差点の真ん中が四角く石と鉄棒の柵で囲われており、真ん中に一枚の石が見える。車の通行を考えれば邪魔で仕方がないように思えるのだが、これが知恩院の七不思議の一つ瓜生石だ。この瓜生石を見下ろすようにして黒門が佇む。
知恩院黒門
知恩院の北の入り口にある門。その名のとおり黒い門で、伏見城から移築されたものである。低くがっしりした構えで、この一角は寺というより城郭の風情が漂う。
この門は、空・無相・無願の三つの解脱の境地を表わす門として、三門と称されている。徳川氏の寄進により1621年(元和7年)に建立された。重層入母屋本瓦葺きで、現存する木造の門としては国内最大のものである。国宝。
この門の上に、知恩院の七不思議の一つ白木の棺がある。将軍家より三門造営の命を受けた五味金右衛門は、意気に感じて、命がけで工事に取り組んだという。やがて三門は完成したが、工事の予算が相当に超過しており、その責任をとるために夫婦で自刃したと伝えられる。この夫婦の菩提を弔うため、白木の棺に金右衛門自作の木像が納められ、安置されているのである。
知恩院三門
黒門の前を右手に曲がり広い道路を進む。この散歩道の中でも、このあたりの道幅が非常に広い事に気が付く人も居るだろう。実は、つい最近まで清水の三年坂から平安神宮へかけて20m幅の道路を整備するという計画が存在していた。昭和初期に策定されたものだが、このあたりはその計画に沿って整備されたものかも知れない。京都の顔ともいうべき三年坂も二年坂も神宮道のようなアスファルト道路に変えてしまおうという、今から見ると乱暴極まりない計画であったが、ようやくその非が認められて取り消しとなった。計画を策定した当時の価値観では、古ぼけた細い道よりも幅広く整備された道の方が値打ちがあったという事なのだろう。今となっては、計画がほとんど進まなかった事が有り難たい。
やがて、左手に巨大な門が見えてくる。知恩院の三門だ。
階段を上って三門をくぐり抜けると目の前に急な石段がそびえ立つ。これが男坂で、右手にはゆるやかな女坂がある。どちらを通っても御影堂の前にたどり着く。
健脚自慢なら男坂を一気に駆け上がってみるのも良いが、風情を楽しみながらじっくり女坂を歩く方がお勧め。
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三門の位置

黒門の位置
知恩院七不思議のひとつ。誰も植えた覚えがないのにこの石から瓜のつるが伸び、やがて花が咲き、瓜が青々と実ったという伝説を持つ。また、別の説では、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、その後再びこの石に来現し、一夜のうちに瓜が生え、実がなったと伝えられている。
瓜生石



男坂(左)と女坂(右)
黒門の内部も、立派な石垣を組んだ城の枡形のような構造になっている。このことから、徳川氏は知恩院を京都における軍事拠点のひとつとして想定し、城郭としての整備を進めていたのではないかと考えられている。
知恩院黒門の内部
この石には、さらに別の言い伝えがある。まず、この石の下に二条城への抜け道があると云われている。黒門と共に知恩院=徳川氏の軍事拠点説から来ているものなのだろうか。
また、ここは隕石が落ちた跡という説もある。確かに、この石は妙に黒くて、なにやら隕石のように見えなくもない。なんとも不思議な石ではある。
瓜生石(拡大)
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