武雄の後藤家 及び、島原の有馬家における『武富家』を紹介します。
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武富志麻は、“後藤貴明”の側近。


貴明は、1534年、大村純前の子として生まれるが、
12歳で武雄を領有している後藤純明の養子に入り、家督を相続する。

だが、龍造寺隆信や大村純忠といった強敵に囲まれ、
これを打破する為、平戸の松浦隆信の二男“惟明”を養子に迎える。
しかし、貴明は、惟明に家督を譲らず、実子の晴明の成長とともに
溺愛しはじめた。
家督相続に不安を感じた惟明は、重臣らと貴明隠退を謀議しはじめるが、
これが貴明側に露見し、後藤家を二分するお家騒動へと発展する。
                   (惟明の乱)

この乱に際し、
貴明の指示を受けた“武富志麻”は、
晴明を宿舎の宮野(杵島郡山内町)に移すとともに、
龍造寺隆信に助勢をこう使者として、佐賀に出向いている。
武富勘右衛門は、島原藩主“有馬直純”の重臣。(家老?)     


有馬家は、キリシタン大名として有名であるが、
1613年、長崎奉行“長谷川藤広”の強圧を受けて、苦しい立場となる。
そこで、キリシタンの重臣を城内に集め、
「 一日だけで良いから信仰を捨てるように 」と説得をする。
ほとんどの者は、主君の立場を重んじて、これに同意するが、
武富勘右衛門をはじめとする3名の重臣は、これを拒否。
やむなく、処刑される。
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