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士 族
明治2年6月25日
佐賀藩士のうち、「侍」・「手明鑓」・「徒」の階級者は、『士族』に、
「足軽」の階級者は、『卒族』となった。


明治3年の佐賀藩全体の人口は、51万2,754人である。
この内、華族・士族・卒族の合計は、8万3,644人で、
全人口に対する比率は16.3%と、他藩に比べて高比率となっている。
ちなみに、隣の唐津藩では、10%にも満たない比率である。
つまり、佐賀藩においては武士身分の者が非常に多かった証拠である。


明治5年1月29日
「卒族」のうち、世襲の者9,803人は、『士族』に編入されたが、
一代抱えの者は、平民となった。

世襲の「卒」が、生活の哀れさの上に、『士族』に列しなかった時、
これでは、実も名もないと、一時騒いだ気持ちも諒とされる。
「足軽」といっても、城下を離れた農村の村祭りでは、
“庄屋”と並んで、上座を占めるというのが、
明治維新までの武士の姿であった。

ある「卒族」の者は、
かやぶきの長屋に『士族 ○○』と表札を掲げた時、
急に身分が上がった様で、うれしかったと語っていたそうである。


明治6年8月31日
『士族』の犯罪者は、“ 除族 ”とするが、
その家族は無禄となっても、『士族』の籍は許された。

この当時、『士族』の者に対する極刑は、“ 除族 ”といわれており、
いかに、武士たる身分である『士族』に誇りを持ち、
こだわっていたかがわかる。

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