【 清廉なる政治家 】
およそ政治家といわれ、政党の領袖といわれる程の人で、
財閥(現在でいえば財界)の背景を持っていない者は極めて稀なことです。
清廉な政治家とか、清節を持する政治家とか、世間に謳われている人で
あっても、財閥と全く歿交渉であると言い切れる者が果たしているので
しょうか?
長い間には、政治家と財閥の間に多少の縁故が結び付くのは当然の事です。
そして、財閥の背景が、その政治家の勢力を張る上に利用されるのが、
政界の実情といえます。
しかし、武富時敏は、財力や財閥とは全く歿交渉です。
財閥との関係を疑われたこともなければ、財力を利用した事もないのです。
政界に重きを為したのは、その実力であり、その経綸の才であり、
その雄弁であって、財力や財閥(財界)の背景ではないのです。

大蔵大臣であった当時、その地位からして財界方面の人々との接触が
少なくはなかったのですが、瓜田に履を納れず、李下に冠を整えずという
様な態度をもって、その職に当っていたのです。
経済の発展、国益の伸長に就いては、実業家などの請願に応じ、
請願なくても、自ら進んで出来る限りの便宜と保護指導を与えたのですが、彼らの求めるところが、不正な利権に亘るような場合には、頑として要求を退け、いわゆる利権屋の輩をして策動の余地をあたえなかったのでした。

そして、極めつけは、世間一般の好意を意味し、謝礼の意味するもので
あっても、大臣の地位にある限りは断じて受けなかったのでした。
これ程までに、細心の注意をはらい、
“清廉”を守り通して来た人は、他にはいないでしょう。



〔 逸話 〕

大正5年、大隈内閣が総辞職してから間もない頃だと言われています。
ある日、早稲田の大隈邸を訪れた者がいました。
それは、つい先日まで大蔵大臣として財政経済界に君臨していた武富時敏で
した。

大隈は、時敏が辞去した後、誰に語るともなく、

 「 武富は、やっと身体に暇が出来て帰省したいが、
             その用意がまだ出来ないでいると言う。
   大蔵大臣までつとめた男だのに、
             僅かばかりの用意がないとはウム ……。」と

 口をへの字に結んで、さも驚いたという表情の一面には、
 また会心の笑みを浮かべていたのでした。

この話は、政界の一部に伝わっており、特に時敏と親しい人ほど信じきっていました。
ただし、この話は事実ではないのです。


大隈は日頃、
「武富は、国家の財政には何如までも明るいが、
                 一家の経営にはその反対だ。」と

常に“清廉”を守って、清貧に甘んじてきた時敏を批評していたので、
この批評に何時しか目鼻は付き、尾ひれが付いて、こんな話ができあがったものと思われるのです。
この逸話の様なものが、さも事実なるが如く、人々の胸に響いているのを
みても、それだけ、時敏が“清廉”であって、“家系の窮乏”など意と
しなかった事がうかがえるのです。
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