【 第二次大隈内閣 】
大正3年4月、第二次大隈内閣が発足しました。
時敏は、『 逓信大臣 』に就任します。
永年、野党として逆境にあったが、58歳にしてはじめて台閣に立ち、
日頃の経綸を述べる時節が巡ってきたのでした。


時敏は、逓信大臣となりましたが、
大臣など威張ってみてもつまらないものではないかと感じていました。
閣議には、時々、大きい問題も出て頭脳も使う様な事がないでもないが、
逓信省に帰って見ると、丸で話にならない。
三等郵便局の何だとか、水力使用願いの何だとか、その様な細かな事を
何で大臣が聞くのだろうと思うようなことばかりでした。
郵便・電信・電話・為替貯金等、いわゆる現業が逓信省の事務であるから、
内閣の政綱政策には、ほとんど関係はないのです。
僅かに、航路補助が内閣の政策と関係を持つくらいのものです。
省として、国務大臣を首長に戴く必要はないのではないかと思った位でした。



〔 無線電信法 〕

時敏が、逓信事業に残した大きなものとして、
大正4年6月公布、11月施行の「無線電信法」があります。
本法は、それまで、認めていなかった民間私設の無線電信を条件つきで
認める事としたのが特徴で、以後、これが船舶の航行安全に寄与する事に
なったのでした。

1912年(明治45年)4月、イギリスの豪華船タイタニック号(4,600t)が
北大西洋で大氷山に激突して沈没し、1,503名が死亡しましたが、
これらの遭難にあたって、無線電信がいかに重要なものであるかという事を
知らされたのでした。
これ以後、船舶への無線電信設備、船舶間の通信義務の一般化が図られ、
世界中で設備を競うようになっていきました。



〔 簡易生命保険の創案者 〕

当時、民間の保険業者は、政府の民業圧迫なりとして、猛然なる阻止運動を
試み、並々の大臣ならば恐らく腰砕けに終わったであろうが、
時敏は、少しもこれらの運動に動かされないで立案を完成し、
なおその成立についても督励したのでした。
この簡易保険が、中産以下のために、この上もなき幸福をもたらし、
かつ莫大なる積立金は、年々、社会事業その他の資源となって多大の効果を
あげたのでした。
これが、平成の今日まで続いてきた「 簡保 」。
すなわち、「 郵便局の簡易保険 」でした。
先日、郵政民営化により、郵便会社・保険会社等に分割されましたが、
この簡保の功績は多大であったと思われます。




大正4年8月、時敏は改造内閣で、『 大蔵大臣 』に就任します。
大蔵省や日銀出身でない“党人”大蔵大臣は、同じ佐賀出身の松田正久に
ついで二人目でした。

民政党の総裁“若槻”は、
「政党の出身で、
 真によく財政が判っているのは、武富氏くらいのものだ。」
                        と批評しています。


当時は、日本も参戦した第一次世界大戦が終わり、
その経済的影響が現れてきていました。
連合国側の武器の注文を手始めに、次第に民需品の注文も多くなって、
日本経済は大戦による活況を迎える事になったのでした。

この全く新しい事態に面して、大蔵大臣に就任した時敏は、
「逓信省では、気に懸かる様な事はただの一度もなかったが、
 大蔵省では絶えずそれからそれと、これはどう処分しよう、
 そうしたら結果はどうなるであろうかと気に懸かる事が起こってくる。
 それがまた面白くて、
 初めてこれでこそ大臣の仕事らしい仕事があると愉快に感じた。」
                       と心境を語っています。



〔 正貨対策 〕

大隈内閣成立当初、日本の国際収支は危機に陥っており、
外債の利払いにも窮し、正貨の確保は財政当局の最大の課題でもありました。
しかし、戦争により、事態は一変します。
そこで、長年、借金で世話になったイギリスに、連合国のよしみをもって、
日本の在米資金1億円(5千万ドル)を預けかえる事を提案し、
ドル資金の手詰りで困っていたイギリスより感謝されています。

また、ロシア保有の金塊(6億円)をシベリア経由で北米に輸送するにあたり、
ウラジオストックからバンクーバーまで、日本の軍艦で金塊を護送し、
ドイツの潜水艦に備えた事もありました。
この時、金塊の1割を日本で受け取り、金貨に改鋳し日銀に納めたが、
貿易好転で在外正貨は増えたものの、それを本国に送ることができなかった
だけに、思いがけないもうけものでした。
これも、はじめは加藤海軍大臣が、
「軍艦を輸送に使うわけにはいかない。」と反対しましたが、
              時敏が説得して実現の運びとなったのでした。



〔 逸話 〕

日銀総裁の三島弥太郎は、
非常な寒がりで、フロックの裏に毛皮を着けていました。
時敏も、また寒がりでしたが、
三島は、
「毛皮を君にあげたいが、
 今は職務の関係で君は受け取るまい。いずれ職をひいた後にしよう。」
                         と約束していました。
三島の死後、
未亡人は、生前の約束ですからと、時敏に毛皮を贈ったそうです。
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閣僚名簿