【 第一次大隈内閣 】
明治31年6月、大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合同して、
新たに“憲政党”を結成しました。
そして、組閣の大命が下り、わが国初の政党内閣が成立します。
第一次大隈内閣です。
時敏は、『 内閣書記官長 』(現在の内閣官房長官)として、
閣僚に列したのです。



この時の内閣書記官長の多忙は、目が回るほどでした。
当時は、任用令などなく、誰でも役人になれるので、猟官運動が激しく、
応酬にひまないくらいでした。

また、政党出身の大臣は、一切実務が分からず、省の属僚に聞いてきたり、
属領の意見書をそのまま委員会に提出するので手に負えず、
いつの会議でも、書記官長1人が各大臣と深夜まで争論しまければならぬ
といった始末でした。

さらに、政党内閣は宮中の御信任がなかったと見えて、
内閣から奏請する事には、ほとんど事毎に御下問があり、
一々、書記官長が侍従長の所へ弁解に行かねばならず、
実にやり切れないものがあったのでした。



〔 逸話@ 〕

ある時、内務大臣の板垣退助が地方局長更迭案を閣議に提出しました。
この地方局長は、すこぶる落ち着いた風貌の堂々たる人でしたが、
識見がそれに伴わず、自分の机上に、英語で自分の悪口を書かれても
平気であったという様な珍談の持主であっただけに、
重要な地位でもある地方局長としては、もちろん不向きでした。
板垣も、他の進言もあったので、結局、これを左遷する事にして、
閣議に提出したのでした。
そこで、書記官長の時敏は、この案に目を通してから、
板垣に更迭の事情を質問したのです。
すると、「無能だから、やむなく左遷する事にした。」と答えたので、
「それなら、何故罷免しないのか。
 地方に廻しても、無能な者は、やはり無能ではないか。」
              と畳みかけ、手厳しく突っ込んだのです。
理の当然に、さすがの板垣も困り果てたのとの事でした。
その当時、板垣は時敏が苦手で、何か変わった事を言うと、
その都度、容赦なく突っ込まれるので、大いに弱っていたらしいです。



〔 逸話A 〕

同郷の松田正久が大蔵大臣に就いていた時のことです。
書記官長の時敏が、閣議の承認を求めて書類を出したところ、
考えていて、すぐに捺印しないので、
「こんな事くらい分からないのか、
     それでは大臣を辞めたらどうか。」と皮肉ったそうです。
さすがの硬骨漢“松田”も、「よし、わかった。」と
苦笑して印鑑を押したという事です。





【 院内一の財政通・弁論の雄 】


明治31年11月、第一次大隈内閣の総辞職で、時敏も退きました。
これを継いだ第二次山県内閣が、「地租増徴案」提出で世論がわくと、
反対党の急先鋒“憲政党”の時敏は、国家財政の機微をあげ、
明快な論理を進めながら内閣の退陣を迫ったのです。
この様な大演説が一段と“時敏”の声価をあげる要因となり、
『 院内一の財政通 』・『 弁論の雄 』との評価が流れ出しました。

その後、山県のあとを受け、同じ長州閥の桂太郎内閣が成立しますが、
軍備拡張のために“地租増徴案”を継続するに及び、
時敏は、さらに懸河の弁をもって財政を弾劾、党派をこえて拍手されると
いったありさまでした。



〔 逸話 〕

時敏は、財政通として知られた事もあり、『財政便覧』等の著書もある。
これは、
「議員が予算書を開いても意味がわからないようでは、
        代議政治も有名無実。解説書を書いてみないか。」
              と大隈重信に勧められて著したものです。
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閣僚名簿
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