【 国会へ 】
明治22年、以前の九州改進党肥前部の組織も、年を経て解体しており、
時敏が主唱者となって、県内の同志を集めて、“郷党会”と称する団体を
組織しました。

この頃、小城の“松田正久”と初めて対面します。
当時、松田は、鹿児島の“造士館”の教頭をしており、
「 来年の選挙には、自分も議員候補者に加えてほしい。」と
人を介して掛け合ってきたので、合う事としました。
合ってみると、“ボッー”として夜か昼か分からぬ様な男で、
学者と聞いていたので、種々話しかけてみても、余り意見のある様には、
見えませんでした。
とにかく、佐賀県1区からは、2人で出馬する事を約束しました。

そして、明治23年、第一回衆議院議員選挙が実施されたのです。
郷党会は、一区から、時敏と松田正久、二区から、天野為之、
三区から、二位景暢が立候補し、全員が当選しました。


明治25年、第二回選挙に立候補するも、政府による選挙干渉で落選します。

佐賀において、選挙干渉の騒擾が著しかったのは、
松田正久の地盤である小城郡、そして、武富一族が多く在住している小田村
(現在の江北町上小田・下小田地区)でした。
時敏は、佐賀城下の生まれで、佐賀市が地盤ですが、
やはり、同族の応援があったのでしょうか。

これ以後、落選する事はなく、
自ら立候補を辞退する大正13年まで議席を維持します。

時敏は、長い政治活動の大半を野党として過ごし、
同郷の先輩である“大隈重信”の政治的同志として知られる事になります。

明治29年の秋、松方と大隈が連携して内閣を組織する事になります。
いわゆる“松隈内閣”です。
この時、大隈は、外務大臣でしたが、30年4月に農商務大臣を兼務します。
その際、時敏は、農商務省商工局長に任命されます。
そして、8月、大蔵省参事官に転任します。
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