【 県会・郡長 】
明治16年、この年は、時敏にとって議員生活の第1年でした。
県会議員の選挙があり、佐賀郡より推されて当選したのです。
この頃すでに、佐賀において時敏の上に立つものはなく、
当然、議長に推されるものと、本人のみならず、まわりの人々もそう思い、
信じていましたが、所期に反し、武雄人の松尾芳道が議長に就任しました。
(時敏は、副議長となる。)

これには深い訳があり、藩政時代、各郡の者は、陪臣・陪々臣と言われ、
佐賀城下に出れば、道の真ん中を歩く事ができない位に虐待されていたので
した。
また、城下や付近の商人・百姓までも、「我は、御本方ぞ。」と豪語し、
各郡の者に威張りちらしていたのでした。
その為、維新後は自然、その反動が大きく、昔のごとく、
佐賀に支配されるのを恐れ、武雄人の松尾を議長に選出したのです。
しかし、明治18年になると、松尾に反対する者が増えたとみえ、
時敏が議長に当選しました。

当時、佐賀県の状況は、各郡割拠であり、一県たる実がなかったのです。
そこで、時敏は、県会の諸問題に対しては、いつも、集中主義を主張したのでした。
つまり、各郡の力を集中して一の事業に注ぐ必要あればこそ、
県を置く必要があるとの根拠からでした。

例えば、各郡に(県立)中学校が設置されている事を攻撃し、
県内に1校、または、2校とすべきを主張しましたが、
各郡議員の欲情に反対する議論なので常に敗れていました。
しかし、後の中学校令の改正で、時敏の論が実行されたのでした。

また、明治19年、筑後川改修費と国道改修費の問題が出た時の事です。
筑後川改修は、本来、福岡県の利害に係るもので、
佐賀県は東部沿岸地域が利害を受けるだけであるにもかかわらず、
経費の負担を佐賀県にて引き受けたのは、県当局者の失借でした。
そればかりか、この案件に西部選出議員の賛成を得るために、
交換条件として、西部の国道改修費案を同時に提出したのでした。
これは、県の政治として極めて陋劣であり、事業の利害いかんに拘らず、
不当であるとの見地から、時敏は、同志を率いて反対したのでした。
県当局は、県会の形勢容易ならぬ事を見てとり、あらゆる出段をもって
議員を誘惑したので、結局、一票差で原案は通過してしまったのでした。
この様に、時敏は、何事にも常に正論の主唱者であり、
堂々と反対論を述べているのです。

佐賀に置県を機として、“佐賀新聞”が発刊されました。
時敏も、創立に際し助力したのですが、社主“江副靖臣”の性格を顕して、
面白からぬ新聞に堕したので、関係を絶ったのでした。
そして、今後、政治活動を為す以上は、機関新聞が必要と思い、
明治19年、“肥筑日報”を創設し、自ら主筆・編集長となりました。
後の、『西肥日報』です。

明治20年7月、時敏は県会議長の地位をなげうち、佐賀郡長に就任します。
これは、明治23年の国会議員選挙に備え、地盤固めをする為でした。
つまり、次第に反目する様になっていた前郡長の“家永恭種”が県議選挙
などで時敏らを妨害する様になった為、「 党勢扶植の一手段 」として
郡長に就任したのでした。
この当時、地方において郡長というのは、想像以上に有力なもので、
内閣の総理大臣よりも重要視されていたのでした。
例えば、県会議員選挙で、郡長が頭を振ったら“ダメ”になる位でした。

時敏は、郡長在任中、財政を改革すると共に、政党の基礎固めに専心します
が、衆議院選挙が翌年に迫っていたので、同志である“横尾純喬”に郡長を
譲り、辞職しました。
明治22年の春のことです。
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