【 政治の道へ 】
時敏は、学者になろうか、政治家になろうか、迷っていました。
時敏の家は、“廉斎”が儒者として召し出された際に創設されたので、
学者の家柄です。
かつ、母の父は、大野平一という蓮池藩の学者であって、
どう見ても、学者の血統に違いないのです。
どちらかと言うと、天性機敏ではなく、
とっさの間に事を処する才に乏しく、
静かに考えて、ようやく解決を得るというくらいで、
機智縦横を貴ぶ政治界に活動しても成功は望めないであろう。
むしろ、幼少期に父に教え込まれた「学者は、迂腐にして時務を知らず。」
が頭に残っていて、好んで学者になりたくもなかったのでした。
一方、政治界の活発発地なる事を想像すると野心勃々たらざるを得なかった
のも確かでした。

つまり、冷静に考える時は、学者になる方を適材適所の様に思い、
少し興に乗じてくれば、政治家として活動してみたいと思い、
決心がつかなかったのです。

そして、運命の明治14年をむかえる事になります。
この年、薩摩・長州の陰謀とされる“大政変”により、
参議の大隈重信をはじめ、多数の者が野に下ったのでした。
この時、東京から副島種臣の使いとして、友人の諸岡孔一が佐賀に来て、
同志を糾合して上京をすべきであると勧めたのです。
時敏は承諾し、4〜5名の同志を伴い上京の途に就きました。
途中、神戸にて、明治23年を期して国会を開設するの詔勅が出た事を聞き、
東京に着いてみれば、鎮火後の火事場の様で、張合い抜けがしたのですが、
まずは、副島と時事を談ずることとなりました。

この頃から、時敏が国会議員として政治に身を委ねるべき運命は、
知らず知らず、自然に決定されてしまっていたのです。

10月になると、国会開設の詔勅が発布されたのを期に九州各地においても
政党組織の議を唱える者が起こってきたのでした。
そこで、九州各県の有志が互いに往来し、
『九州改進党』という一政党を組織する事に決したのでした。
そして、翌15年、熊本にて結党式を行いました。
この九州改進党は、あくまでも九州各県の連合体であり、代表者はなく、
本部は各県代表者1名の委員にて組織され、
各県の地方部は、九州改進党○○支部と称したのです。
例えば、肥前であれば、九州改進党“肥前部”となります。
本部は、当分の間、長崎に置く事となりました。
ただし、この『九州改進党』と『大隈の改進党』とは、
名が偶然一致しただけで全くの別物であり、交流など全くなかったのです。
あえて交渉を避けていたと言っても過言ではありませんでした。

しかし、ここで政治とは別の問題が起こってきました。
『結婚問題です。』
時敏は、独身生活を理想とし、自分の事は自分でする様に心掛けていました。
これには理由があり、スペンサーの哲学書を愛読していましたが、
スペンサーは、身体虚弱で独身生活を為し、家族の煩類なく研究に専心する
事ができて、遂に大著述に成功したという事に感悟したからです。
時敏もまた、幼少から身体は虚弱な方で、病気はないがいかなる活動にも
堪え得る程の強健な骨格ではなく、この数年、過度の勉強と運動不足から
消化機能を弱くし、胃腸病を起こしやすくなっていたのでした。
つまり、スペンサーに同感したものと思われますが、
親類・近隣、そして両親の勧めもあり、
明治16年3月、蓮池藩家老石井忠躬の娘、縫子と結婚式を挙げたのです。
時敏、29歳の春の事です。
c50bs116.gif