【 武力から言論へ 】
“佐賀の乱”は、意外にも容易に治まったが、西郷隆盛は薩摩に在って、
私学校を起こし、内実は兵を練っていたのでした。
その他、肥後、筑前、長州、土佐、越前、加賀等にも不平の徒がおり、
時々、気脈を通じて、叛乱の精神欝勃としていたのでした。

明治9年、熊本で“神風連”が起き、萩では、“前原一誠の乱”があった。
この徒の説客は、佐賀にも往来し、
その度に、時敏も、佐賀の乱の残党として評議に加わったのでした。
時敏は、才学共に秀でているのみでなく、佐賀の乱において勇名を謳われて
いたので、年少であったが自然と人に推されて頭をもたげる事になっていったのでした。
時々、所々に集合して評議するくらいのものでしたが、後に、“松風舎”と
いう小政社を起こし、同志の集会所としました。

明治10年、薩摩において西郷が兵を挙げました。(西南戦争)
佐賀は、明治7年に一敗地にまみれた余憤がいまだ残っており、
薩摩の挙兵を聞くや、皆、すこぶる激昂したのでした。
だが、残念な事に、兵器・小銃等は、ほとんどが没収されて残っておらず、
独立して事を挙げるのは無理である為、薩摩軍が筑後に進出して来るのを
待って、事を挙げる事に決したのでした。
しかし、薩摩軍は熊本城の攻略に手間どり、その間に官軍が優勢となって
北進できず、遂に退いてしまったのでした。
この為、佐賀における挙兵は、未遂に終わったのでした。

薩摩軍の敗滅、そして、西郷の死没は、天下の気勢を一変し、
兵力をもって政府を改革しようとする企図は消滅してしまいました。
しかし、藩閥政府に対する不平の精神は、決して消滅するものではなく、
干戈の力によるものでなければ、『 言論 』によるほかはないのです。

そこで、“国会請願”のごとき形をもって、
この精神は全国各地より起こって来たのでした。
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