【 佐賀の乱 】
明治6年10月、廟堂においては、征韓論が破裂し、
西郷、板垣、後藤、副島、江藤の5人の参議が辞職となりました。
西郷が薩摩に帰臥すると、薩摩出身の将校兵卒に至るまで、
続々と職を棄てて帰郷をはじめ、天下人身恟々たる有様となってきました。

佐賀においては、副島、江藤が辞職したことから、その影響が著しく、
人心が激昂しはじめ、所々に有志者の会合が開かれました。
そして、副島、江藤を後援し、征韓の議を貫徹させようという論が
勃興してきたのでした。

時敏は、血気盛んな頃であり、外が騒がしくなりつつあっては、
家にて静かに読書している事もできず、所々の集会に顔を出しました。

そして、明治7年となり、江藤も帰郷し、隊伍を編成したり、
兵器を集めたりと、いよいよ、戦闘準備を整える事になりました。
2月に入ると、政府が熊本鎮台より兵を向けることとなり、
たちまち爆発したのでした。
この当時、廃藩から3年余りで、士族の家には小銃の1〜2挺はあり、
士族その者は、藩の時代に一通りの銃陣訓練を経ている者が多いので、
集合すれば、直ちに軍隊ができるのでした。

また、この頃は、言論によって国政を左右する時代ではなく、
国政を改革しようとすれば、兵力による外はないと考えられていたのです。
つまり、兵を挙げて敗れれば、賊名を負うことは勿論であるが、
閣臣は国家を誤る者と信じている以上は、兵力をもって君側の悪を除く手段に
出る以外はなく、今日、言論の権威によって内閣の更迭を促すものと、
思想の根本においては異ならないのです。
兵を挙げて官軍と戦うは、選挙において、野党が政府与党に向けて言論を
闘わすと主意において異なるところはないのです。

時敏が所属した団体は、ほとんどが20歳前後の書生で、書を読み、
議論は達者であっても、実戦を知らぬ者ばかりでした。
しかし、幹部の人たちとは相識が多く、山中、香月、中島、徳久等の学校出の
幹部とは親近が多く、よって信任が厚かったのでした。
その為、江藤新平の親衛隊のようなものになって、終始本営の近くにおり、
60名ほどの独立した部隊となりました。

この戦いにおいて、読書生とのみ見られていた時敏は、一躍、勇名を博す事と
なるのです。
読書生のこととて、顔色は白く、骨格は人並みよりも柔弱に見え、
勉強はしたが、武術の心得もなく、戦場における時敏に対しては、
さほど期待してはいなかったが、一旦決心した以上は悪びれた挙動はせず、
弾丸雨飛の間にたっても狼狽はしなかったのでした。
進む時は、人より先に進み、退く時は、後れて退く勇気を示したので、
人々はいつもの弱々しい容姿と対照して、その勇気に驚いたでした。

この激戦は、佐賀東方の中原付近の戦いのことで、
陸軍省編纂の“佐賀討伐記”の中にも書かれており、
『 この時、官軍まさに潰えんとす、
        野津少将自ら陣頭に立ち … 』とあるほどで、
時敏は、「 斬り込めー 」と味方を励まして突進し、
大いに名をあげたのでした。

だが、戦いはあっけなく終わり、江藤ら首謀者は処刑され、
各隊長らは“除族”(士族から平民に落とされる事)や“懲役”の判決を受け
ましたが、時敏を含め、一般士族1万名余りは無罪放免となりました。

時敏は、再び、読書生に戻ったのでした。




〔 逸話 〕

 この“佐賀の乱”の退却に際して時敏は、
 「俺には初めから、この戦争は敗れるとわかっていた。」と
               うそぶいていたという話が残っています。
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