【 生い立ち 】
時敏は、安政2年(1855年)12月9日、佐賀城下の大財村にて、
佐賀藩士“武富良橘”の長男として生まれました。
母は、蓮池藩士“大野平一”の長女“慶子”です。
幼名を元吉郎、後に建之助と言い、幼き頃より、神童と呼ばれていました。

時敏の家は、『大財武富家』と称し、
元禄9年(1696年)に“廉斎(れんさい)”が儒者として召し出された際に
創立されたもので、代々、手明鑓の家系でした。

家は、“聖廟”(廉斎が建立した大財聖堂)の傍らにあり、
見ること聞くこと、学者臭きことばかりでした。
その為、自然に好学心を養われたことは言うまでもありませんでした。

そして、主に時敏を教育し、その品性を陶冶し、人格を完成させたのは、
父である良橘であり、ほとんど他人の力を借りる事はなかったのです。
時敏自身も、父の教育を受けたのみで、自ら修め、自ら学び、
ほとんど、学校教育というものを受けなかったのでした。

父“良橘”は、学者の家系に生まれ、学問に志はありましたが、
学問に対する見地は、いわゆる学者連とは大いに異なっており、

『学問は、実践躬行を主としなければならぬ、
    いたずらに博覧多識では世に益なし。』と訓えていたのでした。

つまり、自ら学問の活用を心掛けると共に、時敏の教育にも、
常にこの心掛けをもって臨んでいた事がわかるのです。
さらに就学年齢ともいうべき7歳くらいからは、
父“良橘”自らが、漢学の手ほどきを行っていました。
また、親類である学者の“武富い南”の家塾「天燭舎」には、
習字の練習に通っていました。
そして、時敏9歳の時、藩の学校である「蒙養舎」に通学を始めたのですが、すでに父に教わっている事ばかりで、ただ復習するだけではつまらず、
馬鹿馬鹿しくなって、13歳にて退学してしまいました。

翌年、明治維新を向かえ、父“良橘”が『一代侍』に上進しました。
時敏は、14歳で『手明鑓』を相続し、15歳の年始には、麻裃を着けて、
藩主に謁見の礼を執りました。

その後、家にて独学自習に励んでいましたが、
“い南”の家塾「天燭舎」だけには、毎日通い、教えを受けていました。
他の門人が聞けない事も、そこは親類の特権で、食事中もかまわず質問し、
時敏が問わぬことまで話して聞かせてくれたのでした。

しかし、父“良橘”は、

『い南は、腐儒である。
 博覧多識なれども、師とするには足りぬ、
          活きた字引と思って学べ。』と訓えていました。

最初、時敏はその意味が分かりませんでしたが、
15〜16歳の頃から、なるほどと了悟するようになってきました。
数年にわたり、“い南先生”に学んできたが、
ただ、字義の解釈か熟語の出典を聞く以外には、
何らの益を受けるところがない。これが活きた字引の意味であろう。

「学問は、自習すべきもので、字引さえあれば、
     人を師として教えをこう必要はない。」と思うようになり、
      益々、独学自習の決心を固めるようになっていったのでした。

すなわち、世に出た後も、自力を信じ、他に頼らなかった自尊心は、
この間に培われたと思われるのです。

この後、時敏の眼は、漢学から洋学へと向きはじめ、
明治5年、東京に遊学します。18歳の頃です。
東京では、ドイツ語、英語を学ぶも、年下の学友と文典の初歩を学習する事に馬鹿馬鹿しくなり、辞典さえあれば、天下読み能わざる書はあるまい。
独学自習すべしと退学してしまいます。
そして、ギソーの「文明史」やアダム・スミスの「経済論」などの英書を
購入し、明治6年の秋、佐賀に帰郷しました。

こうして再び、時敏の読書生活が始まったのでした。
c50bs116.gif