【 家系 】
『 始祖は、明人“ 十三官 ”』


永禄年間(1560年頃)、筑後国瀬高に小柳瀬兵衛という商人がいました。
毎年、商用で支那(南京)に渡っていましたが、ある時、5〜6歳くらいの
童子が乳母や従臣とともに、港の近くをさまよっていました。

そして、この従臣が、瀬兵衛に近寄り、
「この児を賊が襲い、
 奪おうとしているので、どうか助けて下さい」と懇願したのでした。

見ると、その児は、両耳に金環をたれ、卑しからぬ風体であったので、
今は落ちぶれた家の童子であろうと哀れに思い、見捨てる事もできず、
抱き上げて船に乗せ、日本に連れて来ました。

この児は、幼心に、名前を“十三官”と呼ばれていたのを覚えているのみで、
素性はまったくわかりませんでしたが、唯一つの手掛かりが、
十三官を託した従臣から渡された“明服”でした。
この明服は、赤地に日月星辰と鳳凰の刺繍があり、顕貴でなければ着られない
もののように思われました。
火徳を以って王たり、色赤きを尚ぶ明朝にありて、赤地の服は貴顕の衣服に
相違ない。
恐らく、十三官は、明の帝室の子であろうと言い伝えられており、武富時敏の始祖なのです。

十三官は、瀬兵衛の元で育てられ、後(1590年頃)に佐賀に移り住みました。
そして、十三官の長子“庄左衛門”が三溝村の郷士武富茂助の妹を娶り、
家名を【 武富 】と定めたのでした。

“庄左衛門”の弟“久右衛門”も、兄と同様に【 武富 】を名乗り、
佐賀城下で呉服商を営んでいました。
そして、久右衛門の次男“四郎右衛門”が家業を継いでから、益々栄え、
支那とも通商したとみえて、度々、南京に往来した跡が残っています。

この四郎右衛門の長子は、一郎右衛門と称し、名は咸亮(ともすけ)、
字は伯通、廉斎と号しました。
商家に生まれたにもかかわらず、漢学に詳しく、孔孟を尊み、朱を信じ、
時の佐賀藩主鍋島綱茂に知られ、度々、召されて経書を講じていたが、
後に、“士班”(侍分)に列せられました。
これが、鍋島家に仕えた始めなのです。【元禄9年(1696年)】

そこで、廉斎は、家業を次男に譲り、長男“英亮”と共に別家を創立、
これが、武富時敏の家で、代々、手明鑓(切米15石)の家柄でした。
c50bs116.gif