〔1840年代〕
佐賀藩の重臣である須古鍋島家(1万石)における着到である。
この中より、『武富家』のみ抜粋した。
家来(47名) −−−−
歩行(9名) 武富 伊平
足軽(24名) −−−−
被官(304名) 武富 利吉
武富 文六
武富 利兵衛
武富 藤蔵
※ 被官の4名は、下小田在住者である。
この当時、佐賀本藩の領地と思われるが、
江戸初期は、須古龍造寺家の領地であった。
注目していただきたいのは、
総人数384名中、“被官”が304名と8割を占めている事である。
“被官”とは、苗字帯刀を許されて、軍役を負いながら、
手当ては、僅かな米(2〜3斗)を支給されるだけであり、
平時は、農業や商業に従事し、戦時には、主人たる武士に
属して従軍するのであった。
被官は、一般的に“歩行格”と言われているが、
この家臣構成をみると、足軽が24名と極端に少ないので、
“足軽格”の被官がいたかも知れない。
ここでの主人は、鍋島安房であるが、これだけ多数の被官を
抱えているのは、それなりの事情がある。
つまり、須古鍋島家の成り立ちに関係があるのである。
須古鍋島家は、龍造寺隆信の弟である信周が始祖で、
いわゆる龍造寺四家の一つである。
(諫早・多久・武雄・須古)
この四家は、佐賀本藩の鍋島家の主筋であるが、
財政建て直しの為、みずから三部上地を2度行った事により、
領地は半減し、家臣は窮乏したのである。
当然、家禄は半減し、帰農せざるを得なかった者もいたのである。
須古鍋島家としても、軍役に見合った家臣を抱える経済的余裕は
なく、そこで、これらの者たちを準武士身分たる“被官”として、
抱える様になったのではなかろうか。
※ 「 白石町史 」によると、
須古“正行寺”の「宗門人別帳」(戸籍簿的なもの)には、
下記の様に身分が表記されているとの事です。
武士 … 『 須古団結 』
足軽 … 『 卒 』
被官 … 『 被官 』
“被官”は、在郷の武士崩れ(郷士百姓)とみられない事も
なく、庄屋・咾・横目などの村役に任じられているのを
みると、郷村の指導的立場にあった事だけは疑われないと
記されています。