私は、一遍、遊行上人、捨て聖、を尊敬している。上人は付いてきた男女の信徒を引き連れ、時の権力とも身体を張って堂々と渡り合い、住居を定めず、ひたすら日本各地を旅し、念仏札を配り続けた。最後は自らの権威化を否定し、我が屍は野にうち捨てよ、と言った。
酔った時の酒癖を「上戸」という。また日常の癖についてもいう。
私は、ギリシャのディオニュソス、即ち酒神バッカスに魅せられた「敬虔」な信徒でもある。要するに唯の酒徒なのだが・・・。
「遊行上戸」とは酔うと放浪癖のある酒飲みである。また単に放浪癖のあるヤツと言っても良い。
私はしばしば中国を放浪する時に船を利用する。この船旅は神戸から約2日間をかけて上海の中心部、長江の支流黄浦江の埠頭に到着するものである。東京神戸間は夜行バスで往復したりする。片道3日もかけての上海往復となる。成田から飛行機なら片道2時間~3時間で上海浦東空港に到着できると言うのに、酔狂な・・・。
私はこの効率の悪い酔狂な旅をこよなく愛している。上海航路には「新鑑真号」を利用する。やはり神戸から「燕京号」で天津・北京に渡ったこともある。
日中定期フェリーの船賃は年間を通して変わらない。飛行機は最安値の時期は船旅と変わらないが、ピーク時は船賃の2倍・3倍となる。私が船にこだわる理由の一つは貧乏人だからである。一般の中国人にとっては外国旅行そのものが高嶺の花で、私が貧乏人なんて言っては彼らに申し訳ないことだが・・。
旅の移動は遅ければ遅いほど多くの刺激を受ける。旅の濃度は速度が遅ければ遅いほど濃密になる。
つまり、飛行機<列車<船<バス・自動車<バイク<自転車<徒歩、の順で刺激が多いということだ。
昔の旅は徒歩と船だけだった。太古から鉄道や飛行機ができる近代まで、旅はどんなにか濃密だったことだろうか。勿論苦労も多かっただろうが。
中世の捨て聖・一遍上人の旅がうらやましい。古代の旅がうらやましい。現代の旅とは比較にならぬほど不便で苦労が付きまとっただろうが・・・。
しかし古代ギリシャでは折角の旅を走り続けて故郷を往復した、正義漢ぶったメロスという男もいたようだが・・・・。
私はいつもできうる限り効率の悪い旅をしてのんびりと、しかしながらより密度の濃い旅をしたいと思っている。何のために?多分生きていることを確認したいと、もがくために?
何故生きていることを確認したいともがくの?良いじゃない、もがいているうちに無に帰することになれば・・・。
知り合いの坊主に、長生きして惚けてしまい、他人に迷惑をかけてまで生きていることは恐怖だ、と話したことがある。坊主曰く、あんたは大丈夫、世界の何処か、片田舎の小さな駅のベンチに座った、きたない格好の老人が眠っているので、通りがかりの人が声をかけると静かに死んでいた。そんな死に方ができるよ、と。そんな死に方は私の理想でもある。
近代化とは効率化だ。目的に向け如何に無駄を省き、早く到達、達成するかを追求することが近代化である。旅の近代化は旅の醍醐味を希薄にした。目的が無い、目的地が無い旅、即ち「放浪」こそが旅の醍醐味とも言える。風の向くまま気の向くまま、その日の気分によって方向を定めぬ旅は近代化によってすり切れた人間を回復させてくれるというものだ。
気の向くまま、気儘の「気」とは興味と言っても良い。興味とは何か?知らないことを知りたい、見たこともないことを見たい、食べたことが無いものを食べたい、飲んだことが無い飲み物を飲みたい、触ったことが無いものを触りたい、嗅いだことがない匂いを嗅ぎたい、聞いたことが無いものを聞きたい、と言うことだ。
脳科学者澤口俊之氏によると、新奇な刺激を追求する(ノベルティシーキング)脳は前頭連合野にあって、ドーパミンの一要素テストロンをキャッチするD4受動体が長いのだそうだ。
モンゴロイドは短くコーカソイドは長い。してみると私の先祖は何処かでコーカソイドと混血しているのだろうか??つまり私の脳は幼児の脳と同じで、常に新奇な刺激を追及しているということなのだ。
何も興味が無い者は家でじっとしているがよい。
「旅は愚者の楽しみ。賢者は家で本を読む」と、何かで読んだことがある。私は幼稚な愚者だからキョロキョロと興味のアンテナを全開にしてその時まで旅を楽しんでいたい。
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《遊行上戸》