【前書き】
  「私の日中戦争」と題した。もっと詳しくいうと「私にとっての日中戦争」と言うべきかも知れない。
  私は1942年(S17年)2月生まれで、15年戦争の末期、日本軍国主義が最後のあがきでアメリカに対して戦争を開始した真珠湾攻撃の2ヶ月後に生まれた。従って厳密に言えば戦争体験者ではない。いやもっと厳密に言えば熊本での空襲を覚えているから体験者かもしれない。
  1945年(S20年)3歳の幼児の私は疎開先の熊本市内で空襲に遭い、祖母に抱えられて防空壕に逃げ込み、祖母が私を布団蒸しにしてその上を祖母は自らの身体で覆い焼夷爆弾から私を守った。3歳の私が何故そんなことを覚えているかというと、祖母の身を賭した愛の重さが布団の中の私の息を止めんばかりで、その苦しさが幼児の肉体の記憶として残っているからだ。
  15年戦争の終末、1945年8月15日の日本の敗戦を3歳の私は北京で迎えた。その3ヶ月前に無謀にも父親は家族(母・姉・兄・私)を自分の赴任していた北京に呼び寄せたのだ。或いは父親は本土決戦が叫ばれていた日本よりも家族が一緒に北京にいた方が方が安全だと考えたのかもしれない。1947年1月長崎佐世保に一家で引き揚げてきた。そのいきさつについては稿を改めて書きたい。  
  
  私は中国との不思議な縁を思う。前述の北京での幼児体験。大学での東洋哲学や中国語との出会い。M学院就職後の中国古典との出会い。中年になっての中国語の再学習という出会い。50歳を過ぎてからの中国各地の放浪という出会い。等々・・・。そして日中戦争に今向き合っている。
  私にとって日中戦争は重い思いで、今まで頭から日本の国家としての犯罪、と断じてきちんと向き合ってこなかったのではないかとの反省の思いがある。  
  これから、等身大の日中戦争を考えて行きたい、またその戦争の歴史的な事実を学習していきたいと思っている。等身大と言ったのは、公式的な社会科の歴史教科書には載ることが無い、心ならずも(或いは心から)参戦していった普通の若者(それは取りも直さず私と同じ日本人達)はどんな思いでいたのか?どんな思いで戦死していったのかを知りたい。今戦争体験者の多くは85歳を過ぎ次々と亡くなっていく。彼らはまたどんな思いで戦後を生き死んでいったのかを知りたい。

  これから、その時その時の思いを書き綴って行くつもりなので、統一のない断片的なものなると思うがお読みいただけば幸いです。また忌憚のないご意見を賜りたい。
  地球上からの3B(暴力・貧乏・病気)の根絶を願い。
             (08年12月1日記・改訂12/7・09年1/19) 
                  
  

  敗戦後63年経ち、1945年の敗戦時点に中国大陸にいた日本人が次々と亡くなって行く時代となっている。
 私は戦争指導者(将校)よりも一兵卒として参戦した、一人一人の日本人は中国の何処で、何をし、どんな思いでいたのかに興味がある。その興味によって、考えたことを記していきたい。
 成人に達し、一兵卒として中国で参戦した若い兵隊達は今、もう80代の半ばを過ぎ、次々と亡くなっていく。生涯封印し妻にも子供にも沈黙していた「人に話したくないこと」を話して死んでいく人もある。そういう人たちに直接会って聞き書きをし、記録として出版ている人もいる。
 米濱泰英氏(元岩波書店編集者)もその一人で「日本軍 山西残留」はその成果の一つであろう。氏はまたホームページ「オーラルヒストリー企画」をも運営している
中国の日本軍・兵隊達はどんな思いでいたのだろうか。
 終戦(敗戦)当時、南方では多くの兵隊が悲惨な戦死・餓死をしていたが、中国大陸には約190万人(内満州に約80万人)の日本軍・兵隊がおり、日本側発表では、中国戦で、全55戦中51戦1敗3分けで、兵隊達も将校達も敗戦意識は無く、戦力旺盛で、それはとりもなおさず日本軍・兵隊達は世界の全体状況を掴んでおらず、「米軍来たれ、向かい撃ちせん!」との気風があったという。中国側は負けたのではなく、広大な大地の中、戦線を後退しただけ、との意識であったのだろう。

 1945年敗戦時、山西の軍閥、閻錫山(蒋介石と同じく日本の陸軍士官学校に留学経験あり)は山西省に王国を築き、山西の政治・経済を我が物にしようと、日本軍に自軍(大きくは国民党の一派)の援助を要請、初め6万人の日本軍の組み入れを計画する。一方日本軍の元泉少将、岩田少佐はポツダム宣言を無視し閻錫山の要請を受け入れ、勝手に1万5千人の中国残留部隊を編成する。結果として2600名(資料により不定)の兵隊が残留し八路軍(共産党軍)と戦う。
 この間の事情は池谷薫監督によるドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」(2006年)にも詳しく描かれている。
 主人公奥村和一氏らは敗戦により日本軍が壊滅したにも関わらず上官の「命令」で残留を強いられた。日本政府は命令した将校の側に立ち、その全体像を直視せず、彼らを「逃亡兵」として扱い、自ら志願して残留したという見解を変えていない。

 満州国が崩壊し、当時中国国内は国民党軍と共産党軍の戦いが再開し、大混乱を来たしており、日本軍の関東軍は軍隊として敗戦処理(兵員の帰還等)の統制がなく、関東軍航空隊の1部隊280名が八路軍の新設空軍学校に参加し、飛行士の要請を担ったりしている。また民間人も含め1万人(中国側発表2万人)が八路軍の後勤部、医療・看護に参加し、北は満州から南は海南島まで従軍している。
 結果としては直ぐに帰国をしなかった(或いはできなかった)日本人が敵味方となり戦ったことになる。

 
「私の日中戦争」矢崎千坊 
arbygreen.png
トップページに戻る
argblue.png
【山西での戦争】