朝夕は秋の気配となりましたが、日中はまだまだ暑い日が続いています。如何お過ごしでしょうか。
さて、不登校になってしまった子どもさんの保護者が集まって、カウンセリングをしてもらっている様子を
NHK教育テレビで放映していたことがありました。
若い独身男性で、今は学校の先生だという方がおられました。その方は学生の頃、不登校の生徒で、当時は、自分一人で将来のことをあれこれと心配していたそうです。
学校に行くことができないまま毎日を過ごしていたのですが、そんなある日、突然お父さんが部屋に入ってきて、
「お前な、何考えとるのか知らんが、お前の面倒一生見たる。」
と言われて、その瞬間、今までの不安な気持ちが消え去り、安心した気持ちに変わったそうです。その後、学校へも行くことが出来るようになったそうです。
お父さんの気持ちが、この方に伝わって、何とも言い表しようのない力をもらったのだろうと思います。
子どもが生まれて、初めて親と名のらせてもらうのですが、いつまでもどこまでも親であり、子であり続
ける訳です。
あるご門徒は、私がお参りに伺うたびごとに、
「息子のことが心配で心配で仕方がない。心配しても仕方のないことだけど心配や」
と言われます。親が子を思う心の尊さを感じることです。
仏教では、人の慈悲と仏の慈悲とはスケールが違うとされます。
阿弥陀様の慈悲は、念仏する者を全て救いとって捨てないという大きな働きです。阿弥陀様から、私も
人も、一人子のごとく、大切な仏の子として念ぜられています。
そして、礼拝の姿を見てくださるし、お念仏申す声を聞いてくださるし、心の内を知っていてくださるので
す。いつも阿弥陀様は、私たちのそばに居て守り導き救いあげてくださるのです。
これからも、感謝と共に一歩一歩。歩みを進めたいものです。
淡路組萬行寺住職 山本 龍雄
夏休みが終わりますと、小さな子どもさんのお母さんは、「やれやれ、ほっとするわ」と言います。
一日中、食べることやら遊ぶことやら、時には、用もないのに、お母さんお母さんと呼びます。
その声に振り回されることから解放されるからでしょう。
でも、小さな子ども達は、呼ばずにはおれません。最も頼りにする人の名前を呼ぶということは、安心
するんですね。私達は、おぎゃーと産声をあげてこの世に生まれてきて、まだ物心つかないうちから、
「お父さんですよ。お母さんですよ。」と両親の優しい言葉の中で育って来ました。阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏、おまえの心の親ですよと、護り続けてくださっております。
阿弥陀さまこそ、私の心の親さまです。
ところで私達は、南無阿弥陀仏と阿弥陀さまのお名前を呼ばせて頂いておりますが、どういう意味で
阿弥陀さまの名を呼ばせて頂いているのでしょうか?
どういう意味でお念仏を称えさせて頂いているのでしょうか?
それは、生きている間も死んでからも、本当に頼りにする方が阿弥陀さましかないと気づかされたからこそ、自然に阿弥陀さまの名を呼ぶのです。
ですから、お念仏を称えるのは、阿弥陀さま、どうか助けてくださいと、何らかの見返りを期待して称えるのではありません。お念仏を称えさせて頂くということは、お念仏を聞かせて頂くということです。
私のような愚か者を救うために、如来さまから与えてくださったお名前ですから、お名前を称えますと、
罪深い愚か者を必ず救うと仰せですから、
『頼りにしなさい。まかせなさい。』と聞こえてくるのです。
そして如来さまの慈愛の中に生かされている自分であることに、気づかせて頂くのです。
如来さまのお名前も、信心を頂くのも、口で称えるお念仏も、すべて『南無阿弥陀仏』です。
淡路組宣勝寺住職 田近 早弓
私たちはいったい何をするために生まれてきたのでしょう。生まれたからにはどんな人もいつかは死ぬのです。
子どもが小さいときは、背が何センチ伸びたとか、体重が何キロ増えたとかいって喜びます。年をとっても、今年は還暦だとか、喜寿になった、米寿を迎えたといってはお祝いをします。
元気に大きくなったり、無事に年を重ねるのも大変なことですが、唯それだけでは、せっかく人間に生まれてきた値打ちがないと思うのです。
今頃、世の中が不景気だと言われ、店もあちこちシャッターがおりたまま、さみしい気持ちを受ける時があります。テレビ、新聞などでも、小学生が同級生をカッターで殺すなど、毎日と言っても良いくらい、
殺人のニュースが流れ、またしてもと、悲しくつらい気分になります。
今は食べるものも豊かにあり、日本人はずいぶんと恵まれた生活をしているのに、どうしてこんなに道徳心の少ない国民になってしまったのでしょうか?
ただ勉強をして世間で言われている立派な大学を出て、給料の良い会社に入り、良い暮らしをする・・・そのことが人生の目的の様に考える人々が多くなったのではないでしょうか?
貧しくとも、家族仲良く、人間らしい言葉の掛け合える家となっているかどうか、今立ち止まって、ゆっくりとこのことを考え話し合う時だと思います。
『こころ』に価値をおく人と、お金に価値をおく人、二人の人の70年、80年のいのちを終えるとき、まわりの家族の反応はどうでしょうか。
「人生に公式なし されど解答あり」
ということわざがありますが、その家の家風というものは、幼い子ども達の血となり肉となって、その子の人格形成に関係していくと思います。
「三つ子の魂 百まで」
幼子に手を合わせる姿を示す、私たち大人でありたいと、切に念ずる今頃であります。
合 掌
淡路組専修寺 坊守
『何のために』