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 天智天皇は、その6年(667)、斉明天皇の御時より都を置かれていた飛鳥の岡本の宮から、近江大津宮に都を移されました。それまでの多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地ですが、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図るとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、深刻化した本土侵攻の危機に備え、国土防衛のための態勢を整えるなかで、その根幹として天然の要害であるとともに交通の要衝でもある大津に遷都したものと考えられています。

 5年後に起った壬申の乱の敗戦により、わずか5年半の都に終りましたが、この短い期間に大津宮において画期的な新政治を推進されることになり、ひいては近江国・滋賀県の発展の基ともなりました。更にその後を受けた天武天皇は、壬申の乱で対峙したにもかかわらず、多く天智天皇の施策を受け継いでさらに発展させられ、律令制度として結実していきました。こうして天智朝の意義もより大きなものとなったといえます。

 大津宮崩壊の後、その跡は歴史のなかに埋もれて幻の大津京とも語られ、万葉集の歌人たちにより、また後世には歌枕ともなり、数々の歌が残されています。
 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情(こころ)もしのに古思ほゆ
 さざなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

 宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続いていました。昭和3年、13年と二度にわたる発掘調査によっても宮跡の発見には至らなかったのですが、戦後、昭和49年からの発掘調査により、錦織がその中枢地区であることが確定的となりました。『近江名所図絵』(文化11年・1841)『近江名跡案内記』(明治24年)などに記された、大津京は錦織字御所之内にあったという伝えに基づき、明治28年、この地に『志賀宮址碑』が建立されていましたが、あたかも碑の建立地は復元推定地の中心地、内裏南門の跡に相当しています。近江神宮御鎮座の時点では大津宮の所在地は明らかではなかったのですが、宮跡の北端が境内地に接する場所に位置し、三井寺から近江神宮に至る県道は、まさにそのまま大津京のメインストリート、朱雀大路ともいうべき古道の跡だったのです。近隣一帯には大津宮跡の国史跡指定地が点在し、当時の進んだ文化を物語る貴重な出土品が発掘され、南滋賀廃寺跡・崇福寺跡などとともに、往時の皇都、大津京をしのぶ事ができます。

 なお、一般に大津京といわれていますが、大津京の語は古い文献に表われておらず、藤原京・平城京などのように大規模な条坊制をともなったものを京というのであり、大津宮は京といえる程の規模には達していないとして、大津宮というべきだとする学者が多いようです。一方、中心部の宮域内を大津宮といい外延部まで含めた全体像を大津京というとする学者もあります。
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天智天皇と大津京(大津宮)
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