資料 壬申の乱
http://www.oumijingu.org
  大 友 皇 子

 伊賀皇子は又、大友皇子とも申され、御母君は伊賀采女宅子。御幼少頃より天性明悟であらせられたので、天皇の御寵愛が厚くおわした。皇子は百済の学士達を師とし、五経、法律、兵法等を学び、大に文章に通じ、識者はその博学なるを嘆賞したという。懐風藻という本邦初の漢詩集に、大友皇子の詩二首がある。

      侍 宴
 
 皇明光日月  帝徳載天地  三才竝泰昌  萬国表臣義
 
      述 懐

  道徳承天訓  鹽梅監寄眞宰  羞無監撫術  安能臨四海

 皇子は文藻に秀でたのみならず、武事にも長じ、狩猟を好んで常に弓矢を帯し、軍を引き具して山野を狩り暮されたことも伝えられて居る。天智天皇も此の皇子を御寵愛せられたが、皇弟大海人皇子を皇太弟に定め給うた。


  皇 太 弟

 大海人皇子は天智天皇の同母弟で、御母は斉明天皇であらせられた。
 天智天皇の西征の際には、倭の京に留まって萬機を摂行され、大いに人心を収攬して勢力を養われた。大化改新は、血を流す事も少なく、整然と行なわれたとは云うもの、我国積年の門閥制度を打破して、之に代えるに律令の制を以て、人材登庸の道を開いたのであるから、天下一般の人々は之を歓迎したが、貴族達の中には新制度を喜ばず、不平を起した者も少なくなかった。夫等の人々は大海人皇子の穏健なる御処置に同情を寄せ、却って天智天皇の御方針を厭ひ奉るやうな事があった。天皇が近江の志賀に遷都し給いたる際にも、百姓はこれを願はず、諷諌する者が多く、童謡も又多かったのである。又、日夜所々に火災があった事も言い伝えている。

 ある時、天皇が群臣を会して饗宴を催された時、皇太弟・大海人皇子は何を怒られたのか長槍を以て敷板を刺し抜かれた。天皇は驚き怒って皇太弟を捕らえて之を害そうとされたが、中臣鎌足の諫めによって止められた。大海人皇子はそれまでは鎌足とは親しくはなかったが、此の事件があってから、大いに鎌足を信用せられ、後、兵を吉野に起して東国に向ふ際にも、若し鎌足にして生存して居たならば、我此の様な目には遇わなかったであろうと嘆せられたと云う。大友皇子もかって悪夢を見られ、鎌足に語られた所が、鎌足は、「天道親なし唯善を助くと云ふ事であります。願はくば大王徳を務められたならば、災禍も恐るるには足りますまい。臣に息女かおりますゆえ大王の妾に差上げたい」と、其の娘を納れて妃としたという。
 天智天皇十年(671)正月、始めて太政大臣の官を設け、大友皇子を之に任じ給い、諸臣の上となし、同時に蘇我赤兄を左大臣に、中臣金を右大臣に、蘇我果安、巨勢人、紀大人を御吏大夫とせられた。


  吉 野  

 此の年九月、天皇、病に罹られ給うた。そこで十月十七日に、蘇我安麻呂を以て皇太弟・大海人皇子を召され、後事を託されたが、「臣は多病にして国家を保つことは出来ませぬ。願はくば、天下を皇后に授け、大友皇子を皇太子に立て給え。臣は今より出家して、陛下の御為に功徳を修めましょう」と御辞退された。
 天皇は之を許されたので、皇太弟は内裏で落飾し、私蔵の兵器を官に納め、
十月十九日都を立って吉野宮に入られた。此の時、大海人皇子は供奉して居た舎人等を集めて、「我れ今入道修行しようとする。共に道を修めようとする者は留まれ。若し、名を成さんとする者は還って司に仕えよ」と。そこで、半数は去り、半数は留まって吉野にお供をした。此の従者は皆後に一方の将となって、壬申の時の功臣と云われた人々である。

 左大臣蘇我赤兄以下の五人は之を送って菟道に至って還った。時の人之を評して、「虎に翼を付けて放つに同じ」と言い合った。
 皇太弟が吉野に入り給うた時の御歌が萬葉集にある。

 三吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪はふりける 間なくぞ 雨はふりける
 その雪の時ながきごと その雨の間ながきごと 隈も落ちず 
 思ひつつぞ来しその山道を

 壬申の挙兵の事は、此の山道を仙り給ふ間に黙計せられたものであろうと思はれる。


  近江朝廷

 大海人皇子が世を遁れてから、大友皇子は皇太子に立たせられた。十一月二十三日、皇太子は内裏の西殿、織佛像の前に在して、左大臣蘇我赤兄、右大臣中臣金連、御史大夫蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣、等六人を集めて、誓盟をなされ、六臣等も必ず天智天皇の詔に違わざることを盟った。
 翌二十四日、宮中の大蔵省台三倉から出火する、怪しい事件があった。
 十二月三日には天智天皇は近江宮に崩ぜられた。
 一日を隔て皇太子が即位せられた。

 大友皇子の妃は十市皇女といわれ、大海人皇子の女である。大海人皇子の御子の高市、大津の二王子は近江に居られ、且つ群臣の中にも心を吉野に通じる者があるから、近江朝廷の動静は自ら吉野に通信された。之に反して吉野の事情は、近江朝廷には分らない。
 翌年(672)五月、大海人皇子の舎人・朴井雄君が告げて言う、「近江朝廷に於ては、美濃、尾張の両国司に命じて、山陵を造る為として役夫を差定し、人毎に武器を執らせている。之は恐らくは山陵の為のみではあるまい。必ず何か事があるのでありましょう。早く避け給はなければ危い事でありましょう」と申上げた。又、或る人は告げて「近江の京から倭の京に至るまで、所々に物見を置き、菟道の橋守に命じ、吉野の宮の舎人が私粮を運ぶのを遮らせて居ります」と。又、大友皇子の妃・十市皇女からも書状で告げられる所があったから、大海人皇子は人を遣わして偵察されていた。
 「われ位を譲って世を遁れたのは、病を治め身を全うせんが為である。然るに今禍を承けんとする。何ぞ黙々として身を滅ぼされようか」と、美濃、伊勢の間に赴いて近江を襲う計画を立てられた。


  東 国

 美濃、伊勢はかって大海人皇子が東宮であった時、御料地になっていたからである。そこで先三人の使いを派遣し、内意を示して不破の道を塞がしめ、六月の二十四日には、妃?野皇女、及び草壁・忍壁のニ皇子、其の他舎人女官など三十余人を従え、吉野を発して東国に向かわれ、夜半、隠(伊賀・名張)の郡に至られ駅家を焼かれ、「天皇が東国に入ります。」と称して人夫を集められたが一人も来る者が無かった。横河に到った時、広さ十余丈ある黒雲が天に経るのを見られ、大海人皇子は天文遁甲の術に通じ給うていたから、燭を挙して親ら占はせられて、「是天下が両分するの祥である、けれども吾は遂に天下を得るであらう」と言はれた。やがて高市、大津の二皇子なども近江より諸士を率いて来会された。かくて大海人皇子は桑名より不破に入り、大津皇子の言に因って本営を此の地の野上に定め、桑名には妃を止め、高市皇子は和?原(青野原)に軍して、互に連絡を保った。是より先、大伴馬来田及び弟の吹負は、共に時勢の非なるを見て倭に退き、馬来田は大海人皇子に従うた。倭の京の留守司、高坂王及び穂積臣百足等は飛鳥寺の西に屯して、小墾田の兵庫の武器を近江に運んでいたが、吹負は教十騎を率いて百足を殺し、高坂王等を降して其の事情を野上の陣に報告した。大海人皇子は大いに喜ばれ、吹負を将軍とした。


  壬申の乱

 近江朝廷に於ては、大海人皇子が東国に入った事を聞いて驚き、急に驍騎を以って追跡せしめようとの建議をした者もあったが、用いられなかった。かくて使を諸方に遣して兵を召されたが、吉備の国司はもと皇弟の徒党であったから不服の色あるを見て、使の者が之を殺した。又、筑紫の太宰栗隅王は、使いの到るや、「筑紫はもと辺要の地で、外敵を目的とし、内乱の為に備へているのではありません。今軍を発した後、一朝不意の変があったならば国家の不幸でありまます」と。其を口実として兵を出さない。又、東国へ遣した三使も不破を越えることが出来ず、二人は捕はれ一人は逃げ還って使命を果さなかった。倭の京に於ては、留守司の長官、高坂王も降されていたので、近江朝廷の勢は振はなかった。
 其の後、朝廷軍は部署を整え、山部王、蘇我巣安、巨勢比等に数萬の兵を添えて不破を襲撃させたが、途中で山部都王は変身したか、二将の為に殺され、官軍は大いに乱れ、果安は自害してしまった。
 東軍の将、大伴吹負は乃楽山に陣し、二将をして古京(飛鳥岡本宮)を守らしめたが、官軍の将、大野果安が撃って之を破り、吹負は僅に身を以て免れた。果皮は逃げるを追って八ロ岳に至り、古京に楯の列んで居るのを見て、伏兵のある事を疑って還った。其の後、吹負は古京を回復し、東軍も多く集まりいよいよ勢に乗った。
 不破より近江に向かった一軍は村国男依を将として各地に戦い、七月十七日には栗太の官軍を破り、二十二日には瀬田に迫った。天皇は群臣と橋西に陣し給うた(今の鳥居川御霊神社の地という)、軍容は甚だ盛んであった。戦様は烈しく矢の飛び交うこと雨の如くであったが、官軍の将軍智尊は先鋒となり、橋板を撤して防いだ。東軍の勇士大分君稚臣は長矛を棄て甲を重ねぎ、刀を抜き橋を進んだ、ついに官軍は乱れ、後方に陣を移した(今の北大路御霊神社の地という)。
 弘文天皇は左右大臣等と共に遁られ還らせ給うたが、男依等は粟津に迫り、七月二十三日、山前(現在の大津市御陵町)に至り崩御せられた。時に御年二十五歳。この時左右大臣群臣皆遁れ、従い奉った者は物部連麻呂と一二の舎人であったという。

 大友皇子の御事は「日本書紀」には御歴代の中に数え奉ってなかった。
水戸家の「大日本史」は 天皇大友 として本紀に列し、明治三年、諡を奉って弘文天皇と申しあげる。
壬申の乱
http://www.oumijingu.org
御祭神・御由緒
御皇室と近江神宮 
境 内 案 内
御祈祷案内
年 中 行 事
神前結婚式
時計博物舘
大津京年表 
近 江 暦
近江勧学館
日供神饌講
交 通 案 内
先 頭 頁
近江路の万葉