大日本史
http://www.oumijingu.org
大日本史
弘文天皇紀
弘文天皇、初め伊賀皇子と称し天智帝の長子なり。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)
人となり魁岸奇偉、天性明悟、風範弘深、眼中精耀、博学にして古に通じ、文武の才幹あり。唐の使劉徳高、
見て之を異みて曰く、皇子、風骨非常にして、世間の人に似ずと。天智帝の四年正月、太政大臣を拝し、百揆
を総べ萬機を攝ぬ。群下、粛然たり。学士百済人沙宅紹明・答本春初・吉大尚・許卒母・木素貴子を以て師友
となし、文藻日に進めり。十月十七日庚辰、帝、大漸。大海人皇子、儲位を辞し、固く出家修道せんことを請
ふ。帝、之を許す。其に於いて、天皇を立てて皇太子となす。十一月二十三日丙辰、皇太子、西殿の織佛像の
前に坐し、左大臣蘇我臣赤兄・右大臣中臣連金・御史大夫蘇我臣果安・巨勢臣人・紀臣大人侍す。皇太子、手
ら香爐を執り、起ちて誓い曰く、我、卿等と、心を同じくして詔を奉ぜり。もし違ふ所あらば、上天、罰を降
さんと。赤兄等、次に従ひて香爐を執り、泣血して誓ひて曰く、臣等五人、殿下に従ひて、詔旨を承けたり。
若し渝る者あらば、神明、是つみしし、子孫絶え、家門亡びんと。五臣、復皇太子を奉じて、帝の前に盟ふ
十二月三日乙丑、天智帝崩ず。五日丁卯、皇太子、天皇の位に即く。時に年二十四。
元年壬申。春三月十八日己酉、内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣はして、先帝の喪を、唐の使郭務棕等に告げ
しむ。郭務棕等、喪服して哀を挙げ、東向して稽首す。二十一日壬子、郭務棕等、書簡信物を献ず。夏五月十
二日壬寅、甲冑弓矢し布綿を、郭務棕等に賜ふ。二十八日戊午、高麗貢朝す。六月、大海人皇子、兵を吉野に
稱げ、其の将村国連男・和珥部臣君手・身毛君廣を美濃に遣はし、兵衆を差発して、急に不破道を塞ぎ、大分
君恵尺等をして、駅鈴を倭留守司高坂王に乞はしむ。高坂王、聴かず。是に於いて、皇子、途を発して東行し
伊勢国司三宅連石床をして、兵を五百率ゐて、鈴鹿山道を塞がしむ。京師、大に震ふ。
天皇、群臣を召して会議す。或ひと策を進めて曰く、急に驍騎を発し、跡を躡みて之を追はしめん。若し遅
緩せば、則ち事機を失はんと。天皇、聴かず。韋那君磐鍬、書直薬・忍坂直大麻呂を東国に、穂積臣百足、及
び弟百枝、物部首日向を倭の京に、佐伯連男を筑紫に、樟使主磐手を吉備国に遣はして、兵を発せしむ。乃ち
男・磐手に諭して曰く、筑紫太宰府栗隅王・吉備国守当麻公廣島、雅に心を吉野に属せり。若し服せざること
あらば、就きて之を殺せと。磐手、吉備国に到りて符を授け、廣島を給きて之を殺す。男、筑紫に至る。栗隅
王、符を承けて辞謝し、兵を出すこと肯ぜず。磐鍬等、不破に至る。薬・大麻呂、伏兵の為に虜にせられ、磐
鍬、逃れ帰る。高坂王、穂積臣百足等と、飛鳥寺の西の槻の下に営す。百足、吉野の将大伴連吹負が為に誘殺
せられ、百枝・日向に亦捕らへらる。是により、高坂王・稚狭王、懼れて出て降る。秋七月庚寅の朔、吉野の
将坂本臣財、高安城を陥る。二日辛卯、黎明、壱岐史韓国、軍を分ち、大津・丹比の二道より進みて、財を高
安城に攻む。財等、兵を進めて衛我河を渡る。韓国、河西に戦いて之を郤く。河内国司来目臣鹽籠、不破の軍
に応ぜんことを謀り、潜に兵衆を集む。韓国、之を覚る。鹽籠、事の泄れたるを聞き自殺す。時に、山部王・
蘇我臣果安・巨勢臣人・兵数万を将ゐて、犬上川に軍し、進みて不破を襲はんと欲す。山部王、果安・人が為
に殺され、軍乱れて進まず、果安、自殺す。羽田公矢国、其の子大人其の族を以て、吉野に降る。四日癸巳、
将軍大野君果安、大伴連吹負を乃楽山に撃ちて、大に之を破り、追ひて八口に至り、伏あらんを疑いて退く。
五日甲午、田邊小隅、夜、吉野の将田中臣足麻呂が守る所の倉歴の営を襲ひ、大に之を破る。六日乙未、小隅
、兵を進めて刺荻野の営を攻め、利あらずして退く。七日丙申、境部連薬、村国連男依と、息長横河に戦い、
兵敗れて之に死す。九日戊戌、秦友足、男依と、鳥籠山にて戦ひて、之に、死す。壱岐史韓国、吹負と、葦池
の上に戦ひて、利あらず。吹負、更に兵を分ちて、三道より来り攻む。犬養連五十君、中道に当たり、村屋に
屯し、別将廬井造鯨をして、精兵二百を率ゐて、吹負が営を衝かしむ。営堅くして犯すべからず。鯨、進むこ
とを得ず。既にして吉野の将三輪君高市麻呂・置始連菟、大に我が上道軍を箸陵に破り、遂に鯨が軍の後を断
つ。兵士、驚き潰え、死傷する者多し。鯨、単騎免れ帰る。十三日壬寅、社戸臣大口・土師連千島、男依と、
安河の戦ひて虜にせらる。十七日丙午、男依、攻めて栗太の軍を敗る。二十二日辛亥、男依等、瀬田に薄る。
天皇、衆を悉して、橋西に軍す。旗幟、野を蔽いひ、鉦鼓、天に震ふ。智尊、精鋭を率ゐて先鋒となり、橋板
を撤すること三丈、一長版を置き、索を繋けて機を設く。吉野の兵、敢へて進まず。大分君稚臣、矛を棄て刀
を堤げ、板を踏みて疾く渡り、版索を裁断し、矢を冒して以て進む。我が兵悉く乱る。智尊、怒りて退く者を
斬る。然れども、禁ず可からず。智尊、戦死し、軍、遂に敗績せり。是の日、三尾城陥る。二十三日壬子、犬
養連五十君・谷直鹽手、男依と、粟津市に戦いて、敗死す。左右大臣群臣、皆逃れ、唯物部連麻呂、及び一二
の舎人従へり。是の日、天皇、山前に崩ず。時に年二十五。始め天皇、中天洞開し、朱衣の老翁、日を捧げて
天皇に授けしに、忽にして人あり、腋下より出でて、奪い去ることを夢みる。巳にして覚め、驚き異みて、藤
原鎌足に語る。嘆じて曰く、聖朝萬歳の後、恐らくは、巨猾の、ひまを間ふものあらんか。然れども、臣聞く
、天道親なく、唯善是輔くと。大王、自ら勤めて徳を修めば、災異は、憂ふるに足らざるなり。臣に女あり、
願くは後庭に納れて、巾櫛を奉ぜしめ給へと。天皇、之を聴しき。是に至りて、天命、果たして遂げず。嘗て
宴に侍し、詩を献じて曰く、皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 萬国表臣義 と。述懐に曰く、道徳承天
訓、鹽梅寄真宰、羞無監撫術、安能臨四海、と。
(明治三年七月、諡して弘文天皇と曰ふ)
かいがんきいてんせいめいごふうはんこうしんがんちゅうせいよう
りゅうこうとく
あやし いは
か
さたくしょうみょう とうほんしゅんしょ きちたいしょう きょそつぼ ぼくそきし
ぶんそう
たいぜん
ちょい
そがのおみあかえ なかとみのむらじこがね そがのおみはたやす こせのおみひと きのおみうし
こうろ
かわ
ちか
けいしゅ
あづみのむらじいなしき
もふく あい
おおあまのみこ
こまこうちょう
むらくにのむらじおより わにべのおみきみて みけつのきみひろし
おほきた
のきみえさか えきれい やまとのるすし こ
いせのこくしみやけのむらじいはとこ ふさ けいし おほい
ふ
いなのきみいはすき ふみのあたへくすり おさかのあたえおほまろ ほづみのおみももたり
おとうとももえ もののべのおびとひむか さへきのむらじおとこ くすのおみいわて
さと いは くりくまのわう たぎまのきみひろしま つね ぞく も ふく
つ いはて ふ
ふ う じしゃ がへ とりこ
つき もと えい ももたり ふけひ ゆうさつ
わかさのおう おそ くだ ついたち
さかもとのおみたから れいめい いきのふびとからくに たぢひ
えががわ からくに しりぞ くめのおみしおこ
はか ひそか へいしゅう からくに しおこ も
はたやす こせのおみひと ひき
はたのきみやくに うし ぞく
たべのおすみ たなかのおみたりまろ くらふ
ならやま
たらぬ さかいべのむらじくすり おきながのよかわ
はたのともたり とりこのやま あしのいけ
ほとり いぬかいのむらじいきみ むらや
たむろ いほいのみやつこくぢら つ
みわのきみたけちまろ おきそめのむらじう はしはか
つい こそべのむらじおほくち はしのむらじちしま
しゅうつく はしのにし きし おほ しょうこ ふる ちしょう
ふ と はんさく せつだん おか もち
もののべのむらじまろ
とねり やまさき ほう ちゅうてんどうかい しゅい
たちまち えきか うば あやし
たん せいちょうばんざい きょかつ
てんどうしん ただぜんこれをたす つと とく おさ さいい うれ
こうてい い きんしつ ゆる かつ
えん じ こうめいじつげつとてりていとくてんちにのすさんさいならびたいしょうばんこくしんぎをひょうす どうとくてんくん
をうけあんばいしんさいによすはずかんぶのじゅつなきをいずくんぞよくしかいにのぞまん
おくりな
http://www.oumijingu.org